「ひとりの商人」シリーズ 8人の商人の使命

第63回日経広告賞「大賞」受賞作品

少年よ、この星の商人となれ。

第八回 岡藤正広 代表取締役社長

白いシャツの下の小さな肩。やや緊張した表情で、まっすぐこちらを見つめている。この少年が、のちに日本の総合商社、伊藤忠商事の社長となる。岡藤正広。関連会社350社以上、グループ従業員数、約10万人。挑戦を恐れない社員の気質から「野武士集団」と呼ばれる組織を率いるボスの、少年時代の姿だ。
1949年、大阪に生まれた。「やんちゃで毎日いたずらして怒られてばかりいたけど、勉強もようできた」と、ご近所の人は振り返る。机の前にじっと座っているのは性に合わない。いつも町を駆けて遊んだ。
伊藤忠商事入社以来、繊維部門の営業一筋。繊維業界で圧倒的な実績を残し、その手腕を買われて社長に就任。まずまっ先に、無駄な会議と資料をバッサリ半分以下に減らした。「座っているだけで商売などできるか」。さらに無駄な残業も禁止した。結果的に営業の現場へ足を運ぶ時間が生まれ、顧客としっかり向き合えるようになる。それは伊藤忠商事の強みである徹底した現場主義の強化につながる。痛快な決断を下す姿に、あの頃の面影が重なる。

たまたま家の隣がそろばん教室だったので、上級生に混じって腕を磨いた。父親の商売にくっついて行き、そろばんを使わずに暗算をして、即座に金額を出してみせるとお客さんは誰もが驚いた。数字に強い原点がここにある。今も予算、株価と、つねに具体的な数字を挙げて自分の考えを明確に示す。
小学生の頃は、まわりでケンカがあるたび人間をじっくり観察していた。だからだろうか「判官びいき」だ。スポーツを観るときも負けている方を応援する。上の人間には厳しく当たるが、できない部下ほどかわいがる。「出来上がってしまった一番手より、二番手が断然、いい」。ライバルを作ってそれに向かっていくことが人生の糧だ。だから伊藤忠に入ってよかった、と笑う。御三家の一角に食い込む、とはっきりと目標を掲げ、それも達成した。
日々、商売は「稼ぐ」「削る」「防ぐ」の、か・け・ふが大切だと説く。それは攻めの経営の要となる、商人の合い言葉だ。
高校3年生のとき、結核を患った。そして、父親が若くして他界。受験どころではなくなった。人生なにが起こるかわからない。これまで経験した挫折は、挫折ではないと知った。「どんなことが起きても人生を放棄せず、目標に向かってただ努力すること。そこを乗り越えた人間の強さこそ、尊い」と、悟った。2年遅れて、東大に入った。

「これ、どんなとこやろ」。バスの行き先に書かれた場所を見ると、いつもそう思ったという。バスに乗るとお金がかかる。学校から帰るとカバンを放って、友達と終点まで歩いた。習いごとの時間に遅れてどれだけ怒られても、歩いてどこかへ行くのが好きだった。
そして何十年たった今も、少年は歩き続けている。商人たちを率いて、ひたすら先へ。商いで、より良い明日をめざして歩く。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

人は、才能という資源をもっている。

第七回 松尾直明 エネルギー・化学品カンパニー

才能とはなんだろう。目の前の若き商社マンの話を聞きながらそう思った。誰にも負けないことは?と問いかけると、「どんな人とも対話ができること。相手を信じられること。フットワーク軽く人に会いに行けること」と答えた。それはとても素敵なことではあるけれど、言葉にしてしまうとふつうにも聞こえる。しかしそのマインドを持ち続ける舞台が、この国を背負って臨むタフな交渉の場だったらどうだろう?自分のことなど誰も信じてくれない途方もなくアウェイな開発途上国だったら?それは紛れもなく才能と呼べるだろう。

入社7年目。エネルギー部門、石油・LPガス貿易部に所属。石油のトレードを担当する。東日本大震災の後、原発が停止していることから、発電用の重油を電力会社に納入している。
2年目のとき、語学と実務の研修を受けるためインドネシアに滞在した。初めての分野の仕事、文化や言語もわからない、しかも周囲は10年近いキャリアの持ち主ばかり。「25歳の自分は、誰からも信頼されなくて当たり前でしたね」。みんなが面倒がる翻訳の仕事や雑用を黙々と引き受け、食事の機会を重ねながら少しずつ関係を築いていった。やはり人と人とのつながりや信頼があってこそだ。辛かった経験が、この仕事の本質に気づかせてくれた。
そして数年後、そのことを改めて実感することになる。ある大手石油会社に石油を販売するプロジェクト。相手とはつき合いも長い。良い関係を続けるために、情報提供などあらゆる努力を惜しまなかった。
しかし相手の社内事情により、別の商社も競合に加わることになった。
予想外の出来事に動揺した。この仕事はなんとしても取らなくてはならない。既に購入した重油がタンクいっぱいに入っている状態だった。重圧のなか「担当者に泣きつきたいような気持ちでした」。
すると思いがけない言葉が返ってきた。「がんばってくれた松尾さんから、最後は買いますから」。うれしかった。「その人には今でも恩義を感じています。紳士的で誰とでも対等に話をしてくれる方でした」。信頼関係が結実した瞬間だった。

大学時代から、海外で働きたいと思っていた。青年海外協力隊で、アフリカやフィリピンの農村へ。現地では野球のコーチもした。道具がないので、ゴムボールの手打ち野球だ。その時に感じた。先進国からの援助は一方通行で、関係は長くは続かない。本当に発展するためにはビジネスをして、そこに住む人たちが儲かる仕組みがなくてはいけない。眠っている資源を開発することで雇用を生み、日本にも利益をもたらす。そんな仕事に就きたいと思った。伊藤忠商事に、決めた。
2ヶ月後。彼と再会すると、薬指に指輪が光っていた。シンガポール駐在が決まってすぐ、つき合っていた彼女にプロポーズしたと言う。「シンガポールでも子供たちに野球を教えたいんです」と、笑った。
ここでも、惜しげもなく才能を発揮するにちがいない。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

スマトラから帰ってきたサムライ。

第六回 矢島久嗣 住生活・情報カンパニー

日本の総合商社は、ユニークだ。
世界にも例をみない特殊な存在だと言われる、そのビジネスの領域はあまりにも広い。輸出入の貿易だけにとどまらず、川上(原料調達)から川下(小売り)まで関わっていく。資本家でありプロデューサーでありエージェント機能まで担う、さまざまな使命を背負った商人たちの集団だ。そう言われてみると、商社(SHOSHA)という言葉は、まるで「将軍」や「富士山」のように、固有の響きを持って聞こえてくる。

2011年、ひとりの社員がスマトラ島から帰国した。
「スマトラに13年、シンガポールに2年。合計15年ぶりの帰国でした」。生活資材部門の物資部に所属、タイヤの原料となる天然ゴムを扱ってきた。世界の天然ゴムの6割を生産するタイとインドネシアで製造会社を、シンガポールで販売会社を展開。その事業規模は、総合商社の中でNO.1だ。
96年からインドネシアに駐在。現地工場の社長になったときには、まだ32歳だった。30代はすべて、海外で過ごした。「まさかこんなに長く居ることになるとは思いませんでしたけれど」。
水は1日3時間しか出ない、停電もしばしば。インターネットもなかなか通じない。インフラの面や、従業員とのコミュニケーションには苦労した。「規則違反などがあった時のやむを得ない解雇に対して、家族を連れてきて泣かれた時は本当につらかったですね。何かあると占い師を連れてくることもありました」。
意外なことも数多く起こるなかでも、仕事は本当におもしろかった。
「物資部はある意味、商社の原点と言えます」。
ここでは巨大な市場ではなく、あらかじめ的を絞った市場でシェアを取っていくことが求められる。フットワーク軽く、達成感を積み重ねていく。「小さな規模だからこそ自由闊達に議論したり戦略を立てることができて、非常にやり甲斐を感じますね」。
商いの領域が広い総合商社では、ひとりひとりが深い専門性を持たなければならない。取引先からの信頼や情報を得るために、まずはその分野のプロフェッショナルをめざす。課せられた仕事で頭ひとつ抜けだしていく。個の力を結集した強さこそが、伊藤忠商事だ。そんな中で考える商社マンの使命とはなんだろう?
「きちんとその土地に根づく覚悟で、日本と相手をつないでいくことではないでしょうか。中途半端な思いではなく」。
いつも部員に言う言葉は? との問いには「腹をくくれ。腹を割れ」と返ってきた。責任や問題から逃げずに正面から解決に挑む。そして相手とは直接会ってとことん議論するということだ。逃げないこと。その言葉が何度となく会話に登場した。

帰宅すると、駐在した町で出会った犬のゴンタが待っている。スマトラからシンガポール、東京、とずっと一緒にいる相棒だと微笑む。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

彼女が最前線へいく理由。

第五回 太田麻耶 機械カンパニー

「水からロケットまで」を商う総合商社。その仕事場は、この地球上のすべてと言ってもいい。たとえばグーグル・アースのような視点で、世界中で働く伊藤忠の商人たちの姿を想像してみてほしい。その視点をアルジェリアで固定してズームすると、彼女が見えるかもしれない。
機械カンパニー、自動車第一課。中近東とアフリカに自動車を輸出する課に所属する。アルジェリア、モロッコ、ガボン、コートジボワールなどフランス語圏の担当だ。入社6年目。毎月、一週間は海外へ出張する。母親はフランス人。旅が好きで、ふだん旅では行かない国で仕事をしたいと思ったのが、総合商社を志望した理由だという。最終的にはアルジェリアに強かった伊藤忠商事を選んだ。「アルジェリア系フランス人の叔母がいるから、その国に興味があったのです」。

インフラの整っていない国で車を売るのは大変なことだ。「まず、きれいなガソリンでないと車が壊れてしまうので、流通するガソリンについて情報調査します」。
イラクでも情報の少なさに苦しんだ。日本の自動車メーカーが新規参入したくても、ガソリンの質も、現地の道路事情も、そもそも車が何台売れているのかも分からない。メーカーの担当者と一緒に、競合メーカーの車のボンネットを一台一台開けて写真を撮って回った。エンジンの種類から、どういうエンジンオイルが流通しているか、ガソリンスタンドにはどんなタンクがあるのかまで、二人三脚で徹底的に情報を集めた。その甲斐あってついに一部モデルの導入が決まった。
「あのときはうれしかったですね、本当に」。
そもそも、女性がイラクに出張することに驚く。「総合職の女性の中では、いちばん僻地に行っているという自負があります。女性だからという理由で行かせない上司もいますが、私は任せてもらえたので、モチベーションにつながりました」。でも、怖さはない? 「幸い怖い思いをしたことはありません。両親に心配させてしまって、イラク担当を外れたときはすごく喜んでいましたが」。

それでも、今の仕事の大変なことは、面白いことと同義だと言う。
「新しい国で見たこともないものや人や文化に出会うのは、心の底からワクワクします」。アルジェリアでは朝の4時にコーランの音で目が覚めることもある。考え方の違う人達と同じ目標に向かって進むのは、難しいからこそ面白い。時には女性であることがネックになったりする? 「出張先では圧倒的に女性が少ない分、珍しいから会議に出してもらえることもあります」。女性には女性の働き方がある、ということだ。「でも現地の方から、まだ結婚しないのかってお説教されますけど」と笑う。
今後は、駐在に出て最前線で働くことが希望だ。
「やはり、最前線を知らずしてビジネスはできないんじゃないかなって思うので」と、白い歯をのぞかせた。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

開拓精神と、アドレナリン。

第四回 阿部邦明 食料カンパニー

「いちばんワクワクするのは、問題が起こったときですね」。
語弊があるかもしれませんが、と断ったうえで、そう言い切った。
温和な表情に油断していると大胆な発言が飛び出す。
昨年ドール社を買収したことがニュースにもなった食料カンパニーに所属する。現在「ファミリーマート」に出向、執行役員。45歳。
生活消費関連分野に強い伊藤忠商事にとって「ファミリーマート」は、個人消費者に向けたビジネスにおける重要な戦略的拠点だ。その中で主に海外事業を扱う。日本のコンビニのシステムをいかに現地で根づかせていくか。台湾、中国、タイ、ベトナムなど、パートナーのいる国へ毎週のように出向き、現場の調整を重ねる。
国や地域によって食も文化も違うので、当然ながら需要も異なる。カフェのようなスタイルの店もあれば、一日にソフトクリームをひたすら2000個売り上げる店もある。世界情勢が刻々と変わり、進出も撤退もある中、新たな可能性を探りながら商いの場を広げる開拓者だ。
開拓には、タフな交渉を伴うものだ。海外にはさらに上手がいる。
「彼らの本能的に交渉を有利に持っていく建前の使い方、場の作り方、勝ち負けを決めにいく姿勢はタフだなあと思いますね」。
その術にはまらないためのあらゆる手を考え尽くす。聞くだにヒリヒリと緊張する場面が続くだろうと想像するが?
「これが楽しいんですよ~」と微笑む。「交渉は、最後の最後まで何がどうなるかわからない。その可能性が面白くて仕方ない」。

一方、日本でも、コンビニの可能性はまだまだ広がる。薬局と一緒になり、生鮮野菜を扱い、コーヒーのサービスも話題に。ファミリーマートも生活のインフラとして進化し続ける。
「コンビニは町と共に生きているので、変わっていくことは使命なんです」。それに、と続けて「商売はチャレンジだと思いますし」。
毎日モノを右から左に売っているだけでは、商売は減る。現状維持だけでは商いではない。「“現状維持は即脱落”という言葉が、会社にあったようにね」。それは“野武士”と例えられる伊藤忠商事の気質をよく表している。野武士とはチャレンジを恐れない、ひとりひとりの社員の姿。その、個の力を支えるものは一体なんだと思う?
「ビジネスの構想力と、交渉力。この二つに限ります」。
さらに家族の支えもある。「嫁さんも娘も日に2軒くらいコンビニに行きます。ファミマのあの商品はいいだの悪いだの、そんな会話を毎日しています」と、頬をゆるめる。

今後やりたいことは? 「ダイナミックな企業買収と再編」。やはり開拓者だ。「伊藤忠商事は巨大なベンチャー企業だと思うんです」。
で、冒頭の発言だ。ワクワクするのは、問題が発生した時。
「だって、それがなかったら仕事やる意味ってあまりないかもしれないじゃないですか」。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

裏のことなら、すべて知っている。

第三回 三村剛 繊維カンパニー

大胆不敵な笑みを浮かべるその男は、裏側のことなら知り尽くしている、と語ると、静かな自信を見せた。繊維部門ひとすじ。今あなたが着ている洋服の、表側以外のすべてを商っている。
4年前、カンパニー最大の子会社「三景」に出向し、現在取締役。
想像してほしい。たとえばスーツ一着とっても、そこにはボタン、縫い糸、ファスナー、肩パッド、裏地など数十種類にもおよぶ服飾資材が必要になる。その仕入れから生産、物流、在庫管理、販売まで一貫して行っている。それぞれの色、デザイン、サイズ別に「必要な裏地は何メートル、ボタンは何個」とセットにして、膨大な服の数に合わせて用意。その日のうちに出荷。多品種、少量生産、注文への即時対応を実現するシステムを確立した。圧倒的なスピードとサービスで大きなシェアを持つ、アパレル業界の巨大なインフラだ。
「商品開発から一緒に関わって、半年後に売場に出たときの反応を瞬時にフィードバック。すぐ次の商品開発につなげていくんです」。
個人でやったことが直ちに結果につながる。成功するのも失敗するのもすべて自分の責任だ。この個人の裁量の大きさにこそ、商人の醍醐味がある。だから、面白いのだと言う。
「表には出ませんが、裏側にピッタリと張りついていますよ。これがなくては洋服は出来ませんから」と、微笑む。

入社して、東京と大阪で勤務したのちに1998年、上海へ。当時、国内の縫製工場が次々と中国へ進出していた。海外での販売拠点を新たに作った。そこには、中国で商いをするという厳しい現実が待っていた。
「国民性の違い、商習慣の違いで、非常に苦労しましたね」。
言語の問題だけではない。常識が互いに通じない。いちばん大変なのは資金の回収だ。「無いものは払えないって、あちらでは笑って言いますからね」。そんな困難な状況を変えたのは?
「人間関係を作ってしまうのがいちばんです。中国の人たちに悩まされもしましたが、逆に、いちど仲良くなってしまうと非常に優しいし親身になって考えてくれるんです。もう極端なくらいにね」。
しかし時代の変化は激しい。今、舞台はASEANに移っている。また新たな商習慣が待っている。法整備ができていない国もある。
「ビジネスモデルには賞味期限があって、どんどんつくり出していかなくてはならないのです」。
商社にグローバルな展開は必須だ。場所が移れば、そこが新たに商社の活きる場となる。

学生時代はヨット部だった。バリバリ働くモーレツなビジネスマンを夢みた。魅力的な先輩のいる伊藤忠商事を志望した。
そして今。これからやってみたいことは? 「幸福度の向上。やり甲斐もプレッシャーもある仕事だからこそ、多様な生き方を選べるといい。みんな幸せになるといいですよね」。優しい笑みが浮かんだ。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

商人になるために生まれた男。

第二回 野中英二 非鉄・金属原料部

「これまでに辞表は3回、出しています」
金属カンパニー、勤続22年。世界の動向を見据えながら、相場商品であるアルミニウムを扱う課に属する。
「ここで働く者は責任感をもっているやつらが多いので、下手するとすぐ辞表を出すんですよ」と、微笑む。いつもそういう覚悟で仕事をしていると、物事をとことん突き詰めるようになる。だから、だいたいがうまくいくのだ、と言う。
伊藤忠商事のいちばん良いところは? の問いには「やりたいことを自由にやらせてくれるところ。自由と責任はワンセットで、必ず黒字にしなくてはならないけれど、その楽しさと言ったらないですね」。気持ちが盛り上がるのは「チームワークを発揮できたとき。アイデアをぶつけあって、ひとりの脳からは出てこないような知恵が出てくるのが楽しい」。
いろいろな人材の能力を引き出して束ねることなら、誰にも負けない。「その人の良いところを見て、出る杭を思いっきり引っぱるんです。ほめられて伸びると、みな生き生きと仕事をするし、そういう仕事は必ず良い成果が出るんです」。どんな人でも? 「そう、必ず良いところがある。見えないなら、あなたの目が節穴なんです」。
どんな時もあきらめない、熱き心。商社マンとしての信条は
「Nothing is impossible(不可能なことはない)」。

何年か前のことだ。ある企業が、画期的な海上コンテナ用の冷凍冷蔵庫を開発した。しかし海外に向けて上手くアピールすることができず、顧客がまったくつかない。工場へ出向くと、そこには顔や手を真っ黒にしてものづくりをする人の熱意があふれていた。自分の使命は、この人たちの熱意をちゃんとお客さんに伝えることだと感じた。社内では仕事のスケールの大きさにリスクを懸念する声もあったが、世界65カ国以上、タスマニアからグリーンランドまでプレゼンテーションして回った。
すると、その経緯を見ていたデンマークの世界最大のコンテナ会社が、ついに動いた。世界中の船会社もそれに続いた。誰も知らなかった製品が、いきなり世界ナンバーワンのシェアまで上りつめた瞬間だった。
「これで、グリーンランドでレタスが食べられるようになったんですよ」と笑う。「一年間で出張169日でしたから、さすがにカラダは悲鳴をあげましたが、こんなに面白いことはありません」。
売り手よし、買い手よし、世間よし、の『三方よし』の景色が見えた。
「ぼくたちは利益だけを追求するのではない、と思っています。儲けるのは過程であって目的ではない。日本の『商社』は英語にはない概念です」。
そんな熱い男の週末の過ごし方は「朝から晩まで、カミさんとべったりで過ごします」と、笑う。
「ぼくのこと、暑苦しいやっちゃな、と思っているでしょうね」。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。

おさるのジョージが、教えてくれた。

第一回 茅野(ちの)みつる 法務部

その人は颯爽と現れると、よく通るけれどもどこか気さくな感じのする声で話しはじめた。肩書きには、伊藤忠商事執行役員、法務部長、カリフォルニア州弁護士と続く。総合商社という男性社会で、女性初の役員に大抜擢された。伊藤忠商事については「最初は、すごく変わった名前の会社だなあ、というイメージでした」と言って、からりと笑う。

アメリカの弁護士事務所に在籍中、伊藤忠法務部に出向。人生で初めての大阪勤務も経験。その後、同弁護士事務所パートナー昇格を経て、伊藤忠商事に入社した。大阪勤務では関西弁や商社用語と格闘した。海外に赴任したような新しいカルチャーは新鮮だった。弁護士事務所にいるよりも、商社にいる方が楽しい、と思うようになった。
「伊藤忠商事の法務部は、他の商社と比べても現場に近いところにいる。自分が実際に契約の交渉をできるのが、とても魅力的なんです」。
商社の案件の根底にあるのは、すべて契約だという。これまでの物の売買から事業投資が主になったいま、相手との契約関係が重要になる。些細なミスでビジネスが成立しなくなる。一言一句、間違えるわけにはいかない。法務部の重要性が増している。「意見が尊重され、認められるのが、いちばんやりがいにつながります」。
会社の好きなところは、風とおしがよく、仕事を任せてもらえるところ。「さまざまな日本の企業を見てきましたが、若手が萎縮しないでのびのびとやっていますね」。

これまで辛かったことは? という問いには「ありません」と言いきる。アメリカの競争社会にくらべたら、とってもストレスフリーなのだと笑う。「それに私は、小さいころから楽観的なんです」。
会議に出席して見渡すと自分が唯一の女性、ということも少なくない日々だが「頭の中で場面を時代劇に置き換えてコスプレしてしまうんです。大広間で、プレジデントが将軍、あとはみんなお大名。私だけ姫ひとり。時代劇だと人間関係がはっきりしてよくわかります」とニッコリ。
「自分のことも含めて、客観的に見るってすごく重要だと思う」。小さい頃から、空想好きな女の子だった。
「 “おさるのジョージ”が大好き。英語でCurious Georgeっていうんですが、Curiosity(好奇心)は人生でも仕事でもいちばん、大事」。
いろんなことをやりたがる。今でも広報にも行きたいし、営業でもなんでもやってみたい。暇さえあれば趣味のクラシック声楽の練習のためにスタジオに通う。「出勤前の朝6時半に下北沢に行くこともあります。ロックバンドの人たちがいたりして、すごく楽しい」。
好奇心でキラキラしたあの頃の女の子は、いまも同じまなざしのまま満面の笑みを浮かべた。
日本の商社は、おもしろい。

伊藤忠商事は、私です。