パンツ屋のプライド

今から60年以上前のある日。伊藤忠の社員ふたりがある鉄鋼大手メーカーを訪れた。課長の隣にはまだスーツ姿がぎこちない新入社員。この日は彼にとって初めて出席する「指定問屋会議」だった。同業者も出席するが、まだその姿は見当たらない。「我々が一番乗りでしたね。課長、ここにしましょうか」。そう言って、テーブルの真ん中の席の椅子を引こうとした若者を、課長は首を振って制した。「いや、そこは財閥系が座る席だ。我々はあっちだ」。課長が指さしたのは、部屋の隅っこに置かれた別のテーブルだった。「ここに座るんですか?」「ああ。椅子があるだけもうけもんだ」部屋にはまだ誰もいない。なのに、課長は周囲をはばかるように小声で呟いた。そしてこう続けた。「私はここに来られただけで満足だ。でもな。お前は違うぞ。お前は将来、あの真ん中の席に座ってくれ」それだけ言って言葉をつなげなくなった課長の目に、涙が浮かんでいた。その姿にすべてを理解した。「あの屈辱を忘れたことはない」。この時の新入社員は後に金属部門のトップとなる。後輩たちには同じ思いをさせない。そう心に決めて、その後も商談の最前線を駆け抜けてきた。日本が高度経済成長のただ中をひた走っていた1960年代、伊藤忠もまた己の殻を突き破ろうとしていた。江戸末期の安政年間に創業者である初代伊藤忠兵衛が麻布(まふ)を売り歩いたのを礎に、繊維業界では世界に冠たる足跡を残してきた。それに留まらず「総合商社」への進化を目指していたのが、この頃の伊藤忠だ。狙いを定めたのが、日本のものづくりを支える基幹産業たる鉄鋼業だ。その壁は思いのほか分厚かった。「糸屋さんが何しに来た?」「パンツ屋さんはパンツを売ってた方がいいんじゃないのか」。あからさまな侮蔑の言葉に、どれほど多くの先達がうつむいてきたことか。扉をこじ開けたのが1961年10月のことだ。300年の伝統を持つ鉄鋼問屋の森岡興業を吸収合併した。これでようやく指定問屋として、財閥系の総合商社と席を並べることができる。そう思った伊藤忠の商人たちに許されたのが、部屋の隅の席だったのだ。会議が始まっても、テーブルの真ん中に陣取る財閥系商社のように発言する権限などないかのような空気が漂っていた。

あゝ総合商社

それでも伊藤忠は他の分野を目指した。ついに財閥系の「本丸」である
資源にも進出する。
それも日本経済の生命線である石油だ。64年に開かれた東京五輪の熱狂が冷めやらぬまま、日本はいざなぎ景気に突入する。そんな折に伊藤忠が決めたのが東亜石油への投資だった。進軍の掛け声は止まらない。続けて参入した自動車業界では、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携をまとめるなど一躍、業界内で名をとどろかせる。あの時、遠くに見えたテーブルの真ん中。それはもう、すぐそこだ。あと一歩で名門の財閥系と肩を並べることができる――。誰もがそう確信した時、大いなる挫折が待っていた。1970年代に2度の石油危機が日本を襲った。希望の星だった東亜石油は一転して会社の重荷に。過剰な設備投資が露呈し、石油タンカーの長期契約は事実上、宙に浮いてしまった。石油参入の大勝負が完全に裏目に出たのだ。失敗の歴史はまだ終わらない。1980年代末、日本はバブルに踊った。伊藤忠も例外ではない。この時に手を出した特金やファントラと呼ばれる財テクや不動産投資が90年代後半、巨額損失となって会社を存亡の危機に陥れた。多くの仲間が志半ばで伊藤忠を去り、気づけば「テーブルの真ん中」は遠くにかすんでいた。

Drag
あの席の向こうへ

希望の芽が消えたわけではない。再び立ち上がるチャンスは、危機の最中に訪れた。1998年、伊藤忠はファミリーマートの筆頭株主となる。この決断が何を意味するのか。国の発展と歩調を合わせて商売を拡大してきた財閥系とは同じ土俵に立たないとの宣言だ。消費者と向き合い「マーケットイン」に生きる道を見つけようという選択は、伊藤忠にとっての分水嶺だった。その後は情報や環境など新しい事業も次々と育ってきた。もちろん伝統ある諸カンパニーも負けてはいない。

それから30年近く。財閥系とは違う道を選んだ伊藤忠だったが、ついにその背中を捉えた。財閥系と比べて人員規模の小さい集団が栄冠をつかもうとしている。

頑張ったのは社員だった。
「万年4位」と侮られた時代もあったが、
彼らが悔しさを糧にして、
幾つもの山の尾根を越え、
今、ようやく登頂を果たそうとしている。

伊藤忠の先人たちに
それを知らせなくてはいけない。
あの課長に、あの新人に。
最高峰の頂が、
まだこの先にあるということも。