幼い頃の記憶は
決して幸せなものばかりではなかった。夜になると決まって
両親の激しい言い争いが始まり、その声が途絶えるまで
私は布団の中で耳を塞ぎ、小さく震えていた。父は戦争から戻った後、野菜の行商を始めた。野菜を売る父のオート三輪の荷台で、リンゴ箱の中に座っている自分が私の原風景だ。商売はやがて近隣の食堂や百貨店に野菜を卸すほどにまで成功したが、日銭が入るようになるとその成功が父を酒に溺れさせ、生活はすさんでいった。小学6年のある夜、台風が私の家を襲った。安普請の家の屋根が吹き飛ばされ、家族で逃げ出すしかなかった。壊れた家を前に母は涙を流し、「将来は大きな会社に入ってほしい。借金取りも来ないから」と私に懇願した。その時私は、母と弟の生活と未来を自分が支えていくのだと心に誓った。高校3年生の時だった。そんな父が急死し、時期を同じくして私は結核に倒れてしまった。家族を支えていくどころか、ますます窮地に立つことになった。どん底の中での病気療養と大学受験。それでも2年遅れて大学に進学した。苦境の中での屈辱や劣等感が私を強くした。
1974年、私は伊藤忠に入社した。当時は大阪・船場にあった立派な本社ビルを見上げた時、「これでおふくろに楽をさせてあげられる」と誇らしく思えた。しかし、駆け出しの頃、私はずっとどん底に沈んでいた。多くの商社パーソンが一度は経験する「受け渡し」。通関などモノの流れを差配し、代金も回収する。当時、ほとんどの社員は1年ほどこの仕事を経験してから営業の現場に飛び出していったのだが、私だけが4年たっても受け渡しのまま。自分としては仕事をこなしているつもりでも、周囲の評価は散々だった。教育担当の先輩が会議で皆を前にこう言い放った。「彼はこの業界の営業には向いていない」。私にも心当たりがあった。当時の取引先との関係といえば、支払いが滞ったり在庫を引き取らなかったりが日常茶飯事で実にルーズなものだった。若い私の目にはただのなれ合いにしか見えない。「契約を守ってください」。真正面から指摘すると、私には「融通が利かない若造」とのレッテルが貼られ、いつしか社内で居場所を失っていた。そんな私を救ってくれた人がいる。ある問屋の番頭さんだ。「僕、先が見えないんです」と嘆く私に、その方はこんなことを話してくれた。時には山のように積まれる反物を前に心が折れそうになりながらも、品物ひとつずつと向き合うのが問屋のさだめだという。「仕事というのはそういうもんでっせ。初めから先のことばかり見たらあかんのですよ」。この言葉が私の胸に突き刺さった。「俺はなにを将来のことばかり考えて塞ぎ込んでるんや。目の前の仕事に集中せんで、なにがプロや」目が覚めるとはこのことだ。
5年目にやっと営業に出ることができたが、周りの人間から
営業には向かないと言われる中、自信が持てなかった。もしダメだったら、ほらやっぱり、と言われるのではないかと不安で、何とかしなければと焦り、悶々としていた。一方日々の仕事は、問屋やお客さんから言われることを
しているだけだった。お客さんも、伊藤忠ももうかって、自分にしかできない仕事はないだろうか。探していたものは、思いもしないタイミングで
私の目の前に現れた。1980年のある日に
足を運んだオーダースーツの展示会。スーツ生地がずらっと並ぶと正直、
どれも同じに見える。その中から
お客さんはどうやって選ぶのだろうと考えていると、ある紳士にお嬢さんがこう話しかけていた。「パパ、この生地がいいんじゃない」その男性はあっさりと、「じゃあ、これにしよう」と言う。父娘の何気ない会話を見てひらめいた。「これや! スーツの生地を決めてるのは男じゃなくて女の人なんや」。ここから発想を巡らせたのが、女性が好みそうなブランドと交渉して男性用スーツ生地に名前を使わせてもらうという、後のブランドビジネスの原型だった。これなら問屋にお伺いを立てる必要はなく、財閥系もやっていない。お客さんがもうかるだけでなく、伊藤忠にしかできない仕組みを作れるはず――。この時の発見をもとに、私はブランドビジネスを確立していった。名前を聞けば誰でも知っている欧州の高級ブランドを次々と日本に持ち込んだ。
思えば私はあの時、ひとりの商人となった。
それから半世紀。先行く人の遠い背中を追いかけ、
何とか追い付き追い越そうとひた走ってきた。
ひとりの商人の葛藤と挑戦の道のりは、
やがて多くの仲間を得て大きく広がっていく。
そして今――。
伊藤忠に集まった腕利きの商人たちの力をひとつに束ねれば、
その力は計り知れない。我々にしかできない商売の形を創り出そうと、
今日も早朝から仕事に取りかかっている。