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歴史・沿革
創業者・伊藤忠兵衛について
- 初代伊藤忠兵衛
- 初代伊藤忠兵衛は、激動の時代に、全く独立独歩で各種の事業を興し、それらを大きく育てあげました。
- 二代伊藤忠兵衛
- 二代伊藤忠兵衛は、初代から事業を受け継ぎ、それをさらに近代的な経営体へ変革するとともに取り扱い商品の幅を広げ、海外へ事業フィールドを拡張させました。
- 初代忠兵衛の妻 八重夫人
- 初代伊藤忠兵衛、二代伊藤忠兵衛の偉業について語るとき、妻であり、また母であった八重夫人の存在を忘れることはできません。
- 伊藤忠兵衛記念館
- 初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
伊藤忠商事の歴史
| 西暦 (年号) | 伊藤忠商事の歴史 |
|---|---|
| 1858年 (安政5年) |
初代伊藤忠兵衛、大阪経由、泉州、紀州へ初めて麻布の持ち下りをする(伊藤忠商事創業)。 初代伊藤忠兵衛15歳のとき、行商の足を大阪、紀州あたりまで延ばし麻布(まふ)の「持ち下り」商いを始める。そして、翌年には岡山、広島、下関を経由して長崎に至る。このとき、日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と修好通商条約を結び、自由貿易時代が始まった。忠兵衛は「外国人、軍艦、商館を一瞥し、奇異の感を懐き、驚異の眼を開く」とともに、商いの道の無限の可能性を確信するのであった。
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| 1872年 (明治5年) |
大阪市東区本町2丁目に呉服太物商「紅忠」を創立。 大阪・東区本町2丁目、中橋筋東に呉服太物商「紅忠」が開店した。主力の取扱品は麻布全般と尾濃織物、関東織物であった。当時、大阪の呉服問屋街といえば伏見町であり、本町あたりには古着商が集まっていた。初代伊藤忠兵衛は、大阪に本拠を定めるにあたって将来の発展を見越し、あえて本町を選んだ。それは、船着場のある川口町からの道が本町へ通じており、しかも伏見町に比べると地価が半値以下であったからだという。 |
| 1884年 (明治17年) | 紅忠を伊藤本店と改称。 |
| 1893年 (明治26年) |
伊藤糸店を開店(伊藤忠商事の初め)。 綿糸卸商伊藤糸店を大阪・東区安土町2丁目に開店した。初代伊藤忠兵衛を店主にあおぎ、店主代理、後見支配人、主任など10名の陣容であった。利益三分主義の成文化、洋式簿記の採用、月刊誌「実業」の発行(織物業界の指導誌ともなり、一部は市販される)など、当時として画期的な経営方式を次々と取り入れ、店主と従業員の相互信頼の基盤を創りあげるとともに、合理的な経営を実現していく。
伊藤忠商事の根幹となる(糸)伊藤糸店。1893年開店 |
| 1914年 (大正3年) | 個人経営の組織を改め、伊藤忠合名会社を設立。 |
| 1918年 (大正7年) | 伊藤忠商事株式会社を創立。ニューヨーク出張所を開設。 |
| 1928年 (昭和3年) |
海外向け社標をつくる。 社名C.Itohの頭文字をとってC.I.とした。初め海外向けの船積マークとして、
CIのマーク
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| 1941年 (昭和16年) | 伊藤忠商事、丸紅商店及び岸本商店の合併により三興株式会社を設立。 |
| 1944年 (昭和19年) | 三興、大同貿易及び呉羽紡績の合併により大建産業株式会社を設立。 |
| 1949年 (昭和24年) | 伊藤忠商事株式会社を設立。 |
| 1950年 (昭和25年) | 大阪証券取引所、東京証券取引所に株式上場する。 |
| 1952年 (昭和27年) | 伊藤忠アメリカ会社(現・伊藤忠インターナショナル会社)を設立。 |
| 1957年 (昭和32年) | 東京支社新社屋が完成(中央区日本橋本町2丁目)。 |
| 1967年 (昭和42年) | 東京支社を東京本社と改称し、大阪本社との二本社制とする。 |
| 1969年 (昭和44年) |
大阪本社新社屋が竣工。「創業100年記念新社屋完工披露パーティ」を開催。 昭和44年4月25日、創業100年記念式典が13階の大会議室で開かれた。社歌「世界をつなぐ」の披露、標語「世界をつなぐ伊藤忠」(C.Itoh cover the world)ならびに 社訓「創意・工夫・実行」(Idea and Challenge)の発表があった。
創業100年記念式典で「伊勢参り節」を歌う伊藤忠兵衛相談役
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| 1971年 (昭和46年) | 伊藤忠の仲介により、いすゞ自動車と米国GMとが全面提携に関する基本契約書に調印。 |
| 1972年 (昭和47年) |
総合商社で初めて、中国から友好商社に指定される。 1970年代に入り、伊藤忠商事は実りの季節を迎えていた。長年にわたる悲願でもあった「非繊維部門の拡大―総合化」が実現し、総合商社として躍進していった。日中貿易についても、伊藤忠商事は先鞭を切った。昭和46年12月14日付で「日中貿易4条件」を遵守することを正式に発表。社内に「中国室」を設け、中国との貿易促進に積極的に取り組み始めた。そして47年3月には、当時の越後社長を団長とするミッションが訪中、このとき中国から友好商社に指定され、その後の日中友好、日中貿易の推進に一役買った。田中角栄首相が日中国交正常化を実現したのはその後昭和47年9月29日のことであった。 |
| 1974年 (昭和49年) |
伊藤忠商事再発足25周年を記念し、財団法人伊藤忠記念財団を創設する。 伊藤忠商事は、戦後再発足25周年を機に財団法人伊藤忠記念財団 |
| 1977年 (昭和52年) | 安宅産業株式会社を合併。 |
| 1980年 (昭和55年) | 東京本社新社屋が完成(港区北青山2丁目)。 |
| 1989年 (平成元年) | 日本初の民間通信衛星JCSAT-1の打ち上げに成功。 |
| 1992年 (平成4年) |
新企業理念・新英文社名・新ロゴマークを制定。 平成4年6月1日、伊藤忠商事の新しい英文社名と企業理念が発表された。全世界の伊藤忠社員が参加し、1年という歳月をかけて国際総合企業にふさわしい社名と企業理念を検討したNew CI運動の実施により、日本語社名は変更せず、英文社名を「ITOCHU Corporation」とし、企業理念として「ITOCHU Committed to the global good.—豊かさを担う責任」をメインとしたThe ITOCHU CredoとThe ITOCHU Wayが制定された。ITOCHUの新ロゴマークをはじめ、これらのコーポレートシンボルは10月1日をもって実施となった。
新英文社名、新企業理念、発表会
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| 1996年 (平成8年) | 伊藤忠グループがサハリン石油ガス開発の民間筆頭株主となる。 |
| 1997年 (平成9年) |
ディビジョンカンパニー制を導入。 伊藤忠の国内外の取引は多様化し、経営環境も極めて速いスピードで変化している中、タイムリーな意思決定を行うためには、権限と責任を可能な限り現場に委ねる自己完結型経営が求められた。社内分社化の構想はここから生まれ、平成7年に社内で検討委員会が設けられ、平成9年度より導入した。その主なねらいとして、第一に、カンパニーの自主経営による最適経営体制の実施(カンパニーの特性に合わせた経営システムの構築、思い切った分権による迅速な意思決定、連結とB/Sを基軸とした経営手法の高度化)。第二に、Small&Efficientな総本社の構築。第三に、分権に対応する必要最小限のグリップの実現であった。三つの経営手法を実施することにより、業績と業容を改善・拡大し、収益力を強化することを図った。 |
| 1998年 (平成10年) | 伊藤忠グループが株式会社ファミリーマートの株を取得。 |
| 1999年 (平成11年) | 執行役員制を導入。 |
| 2001年 (平成13年) | 伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社 |
| 2002年 (平成14年) | 伊藤忠兵衛記念館がオープン。 |
| 2005年 (平成17年) | 中期経営計画「Frontier—2006 ~攻めへのシフトと守りの堅持~」をスタート。 |
| 2006年 (平成18年) | 業務改革ITOCHU DNAプロジェクトがスタート。 |
| 2007年 (平成19年) | 中期経営計画「Frontier+ 2008 ~世界企業を目指し、挑む~」をスタート。 |
| 2008年 (平成20年) | |
| 2009年 (平成21年) | 中期経営計画「Frontiere 2010 ~世界企業を目指し、未来を創る~」をスタート。 |
| 2011年(平成23年) | 中期経営計画 「Brand-new Deal 2012」をスタート |




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