対談「三方よし」と伊藤忠商事

当社グループが2020年4月に新たな企業理念として定めた「三方よし」の源流や現在の当社の経営方針との共通性、ESGの重要性が高まる中での今後の経営における「あるべき姿」等について、近江商人研究の第一人者である宇佐美教授に、小林CAOがお聞きしました。

対談「三方よし」と伊藤忠商事

小林:今年の4月1日より、当社グループは「三方よし」を企業理念として掲げています。この企業理念の改訂にあたっては、近江商人研究の第一人者である宇佐美教授に調査・実証していただき、「三方よし」の精神は、初代伊藤忠兵衛の商売観である「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」が起源であるとの教授のご見解を、根拠とさせていただきました。「三方よし」という言葉について、改めて教授からご説明いただけますでしょうか。

宇佐美:まず、「三方よし」は、近江商人研究者によって後から作られた造語であり、初代伊藤忠兵衛が「三方よし」という言葉そのものを生み出したわけではないということを、明確にしておく必要があります。また、「三方よし」は、「売り手よし、買い手よし、世間よし」として広く世の中に認識されていますが、「売り手によし、買い手によし、世間によし」と「よし」の前に「に」が入るのが、日本語として正しいと思います。近江商人史において、「三方よし」の表現が使われ始めたきっかけは、1988年に滋賀大学教授であった小倉榮一郎氏が、その著書である『近江商人の経営』の中で、近江商人にとっての商売の哲学が「三方よし」であると記述したことでした。そうした哲学を代表する経営者の言葉として例示されたのが、初代伊藤忠兵衛の「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」なのです。

小林:現代では「三方よし」は誰もが知る言葉となっていますが、その起源は明確には認知されていないのではないかと思います。

宇佐美:「三方よし」の起源は諸説ありますが、その一つとされている中村治兵衛家の家訓の中には、「売り手によし、買い手によし、世間によし」の表現は見当たりません。「売り手によし、買い手によし、世間によし」にあたる記述が登場するのは、あくまで初代伊藤忠兵衛の言葉が最初なのです。近江商人は往路で上方(京都や大阪等の近畿地方)や近江の商品を他国に販売する「持ち下り」商い、復路で他国の特産物を購入して上方・近江で販売する「のこぎり商い」という商い方法を実践していました。やがて他国の特産物を出店を通じて地域間で売買する「諸国産物廻し」も行うようになりました。彼らは他の地域では「他所者(よそもの)」ですので、必然的に地域に根ざした商いを心掛ける必要がありました。こうした近江商人独自の商売のスタイルを長年続ける過程で到達した精神が「三方よし」の源流にあり、それを最初に明確に言語化したのが、初代伊藤忠兵衛です。日本で「三方よし」を「創業の精神」とまで言い切れるのは、初代伊藤忠兵衛を創業者に持つ伊藤忠商事と丸紅だけではないでしょうか。

今の時代を前提に、「三方よし」をどのように捉え、実践していくかが、今後は重要になるかと思います。

滋賀大学名誉教授 宇佐美 英機

1951年、福井県生まれ。滋賀大学経済学部附属史料館元館長。近江商人の経営・社会活動等の研究家として著名。主な著書は、『初代伊藤忠兵衛を追慕する』(清文堂出版)、『近世風俗志(守貞謾稿)』(校訂、岩波文庫)等。

小林:有難うございます。バブル経済が崩壊して以降、日本企業は欧米の株主資本主義の思想や制度を、疑問を抱くことなく取り入れてきました。かつては、企業は株主のものであり、企業は株主利益の極大化のために行動すべきという考え方が浸透していましたが、株主利益の追求だけでは企業の持続性は確保できないという認識が機関投資家や財界のリーダーたちに広がっていった結果、SDGsやESG投資の潮流に繋がっていきました。SDGsやESGで提唱されていることは、「株主利益の最大化を目的とするだけではなく、その他の人々の利益も拡大し、世の中の発展に寄与すべき」ということですが、これは初代伊藤忠兵衛の言葉と完全に一致する考え方だと思います。初代伊藤忠兵衛の精神を受け継ぐ当社の企業活動は、「御仏の心にかなう」、現代風に言い換えますと、広く「世間」に対して利益をもたらす使命があるということになります。

宇佐美:「利益三分主義」には、近江商人の「世間」に対する利益還元の考え方が色濃く出ています。卸商である近江商人のお客様は小売商ですが、小売商の先、つまり商品を購入するその地域の人々の生活が安定しないと商売が長続きしないという考えから、商圏の人々が生活を維持できるように目配りをしていました。特に、人に知られずとも日常的に善行を施す「陰徳善事」を当然の考え方としていたのが特徴的です。天災発生時の救済はもとより、地域社会の困窮者を救済するため、あえて不急である蔵や屋敷を建てて雇用の場を設ける「お助け普請」等は、まさに「世間よし」を体現していた例です。フリードマン流の新自由主義思想のもとで、利潤の極大化を追求することをよしとしてきた欧米の経営と、相互扶助を前提とした共同体の平和を重んじてきた近江商人では、利益観が明らかに異なっていたのです。また、「社員も共同経営者である」という考えは、新自由主義の観点からは否定されがちですが、歴史的・文化的な背景に応じて、最適な価値観を醸成することの方が大事だと思います。

小林:「利益三分主義」は、会社と社員、株主等の資金提供者、お取引先や社会と価値を分かち合おうとする現在の当社の経営の考え方と一致していますね。例えば、当社が「株式報奨制度」を通じて、社員の経営参画意識の向上を図っている点も符合していると感じます。

宇佐美:近江商人が相手にしたのは、縁で結ばれた特定少数の共同体である「世間」でした。一方、現代の企業が相手にするのは、不特定多数の自立した個人が作り上げる「社会」であり、直接の取引がないところにまで利益分配の対象範囲が拡がっています。より広い「社会」にまで利益を分配しようとするならば、より多くの利益を追求しようとすること自体は否定されるものではありません。但し、利益を追求する際に忘れてはならないのは、「利益のために利益を追求してはならない」、言い換えれば「誠実な商い」を行う必要があるということです。近江商人の間では、仮に売値が後に悔やむほどの安値であったとしても、お客様の望みがあれば売り惜しみなく売ることがお客様の信用に繋がり、それが長期的に見ると利益の拡大をもたらすとされ、「売りて悔やむこと商人の極意」と伝えられてきました。初代伊藤忠兵衛が行った現金取引も、買い手である小売商に自身の資力に見合った商品の購入をしてもらうことで、小売商が無駄な在庫を抱える等の不利益を被ることがないようにするのが目的であり、お客様のことを配慮した「誠実な商い」の一つだと思います。お客様の信用を得て長い信頼関係を結びながら永続的に利益を上げ、得た利益を世間に対して分配する「利益三分主義」は、現代社会におけるSDGsに近い概念だと思います。

小林:今の教授のお話にも出てきた「信用」も、当時の近江商人と現在の当社に共通するキーワードだと思います。初代伊藤忠兵衛が始めた麻布の天秤棒での「持ち下り」は、商品サンプルを見せて注文を取り、産地から商品を届けた後で料金をいただくというもので、一連の商いのどこか1点でも信用を損なえば成り立たない商売だったと考えています。 時代は変わりましたが、当社は現在も「コミットメント経営」という形で、毎期の目標達成を追求しています。これは中長期的なビジョンやそれに基づく当社の経営に対してご信頼を得るためには、まずは株主の皆様をはじめとするステークホルダーの信用を毎期しっかりと積み上げていくことが欠かせないという考えによるものであり、当時の考え方とも一脈通じていますね。

宇佐美:近江商人には「商いは牛の涎(よだれ)のごとく」という言葉がありました。これは、一代で財をなすより、数代にわたって商売が継続する方をよしとする考え方です。近江商人の番付表が残っていますが、それを見ると、最上位に評価されているのは何代にもわたって商売を継続している名家で、一代だけでいかに利益を上げて大きな商家になったとしても、それが継続されなければ評価されていません。商売の手法や取扱う商材、社会構造がいかに変わろうとも、何代にもわたって家訓や「店法(たなほう)」で「三方よし」の精神と質素倹約、そして信用を重んじる精神性を伝承していった商家が、先代の信用をもとに商いを細く長く行っていき、その地域で持続的に発展していくことができたのです。

小林:商売を長期的に継続している家を名家と評価する考え方は、現代のサステナビリティを重視する企業評価基準に通じていると思います。つまり、本日お話を伺ってきましたように、近江商人の精神を集約した「三方よし」は、世界最先端の経済的価値観を端的に表した言葉であり、今回、当社が「三方よし」をグループ企業理念としたことは、こうした社会的な潮流とも見事に合致していると考えています。当社では、歴代の経営者が皆「三方よし」の精神を一貫して体現してきましたし、社員一人ひとりの心の中にも落とし込まれています。それが世界中で求められている企業のあるべき姿勢と合致するということは非常に誇らしいことだと思っています。

宇佐美:今の時代を前提に、「三方よし」をどのように捉え、実践していくかが、今後は重要になるかと思います。伊藤忠商事は、どのような未来を描こうとしているのかを、より明確にしていく必要があるのではないでしょうか。「総合商社トップを目指す」というのも社員の大きなモチベーションにはなりますが、それを達成した先に、「社会の公器」としてどのような企業像を目指していくのかを明確化することも、強い動機付けになると思います。取引先に限らず、世界中の様々なステークホルダーに目配りをした経営や社会貢献をしていく必要がある中では、企業行動指針の「ひとりの商人、無数の使命」のもと、自らの置かれた立場で、どのような良い未来を創造しようとしているのか、社員一人ひとりが自分の使命を想像していくことが必要だと考えています。「三方よし」の精神を揺るぎない行動規範として守りつつも、時代に合わせて修正しながら、その継続的な実践に励んでいただくことを期待しています。

小林:私は、今回のコロナ禍で、企業理念は最も苦しい時に社員が寄り添えるものであるべきということを実感しました。新型コロナウイルス感染拡大の影響により、突然の在宅勤務になった社員や、現場の一線に立つ社員の精神的な支柱となったのは、企業理念「三方よし」と企業行動指針「ひとりの商人、無数の使命」であったと思います。「三方よし」を継承する者として一人ひとりに求められるミッションを遂行せよ、ということで非常に分かりやすく普遍的なものであるが故に、この企業理念と企業行動指針が、会社や家族、お客様を守る際に、社員が自らの力で考え、自分の使命をしっかりと果たしていく上で、拠り所にもなっていると考えています。

企業理念を改訂したことで、改めてサステナビリティの観点から社員が「三方よし」の意義を認識することができたものと思います。きっかけを与えてくださった宇佐美教授には改めて感謝申し上げたいと思います。本日はお時間をいただき、有難うございました。

今回のコロナ禍で、企業理念は最も苦しい時に社員が寄り添えるものであるべきということを実感しました。

代表取締役 専務執行役員 CAO 小林 文彦