商人の群像

  • ([ ]内は社長在任期間)

初代伊藤忠兵衛
革新性と家族主義経営の実践

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初代伊藤忠兵衛

伊藤忠商事の創業者、初代伊藤忠兵衛は11歳のとき、家業であった呉服太物を担いで近隣の村へ行 商を始めた。15歳になると叔父、成宮武兵衛とともに大阪から泉州、紀州などへ「持ち下り」と呼ばれた麻布の行商をはじめ、商人への第一歩を踏み出した。長崎まで足を延ばした際に外国貿易の活況を目にし、いち早く貿易業に進出するきっかけとなった。
少年期から培われた商いの心は、やがて商人としての才覚を磨き、今日の伊藤忠商事の原点ともいえる紅忠を大阪の地での開店につながっていく。当時、呉服の取り扱いは京都が中心であったが、初代忠兵衛は、すでに持ち下り時代に店舗を持つなら大阪と決めていた。ここに初代忠兵衛の先見性を見ることができる。
経営者としての初代忠兵衛は、店の経営の合理化と組織化を次々と進めていった。初代忠兵衛の経営は、当時の旧弊な商慣習を率先して打ち破ったものだった。店法を定め、店員と義務と権限を明文化し、店の純利益を本家・店積立・店員に均等に配分する「利益三分主義」をはじめ、会議制度も取り入れた。その後も洋式帳簿の導入、学卒者の採用、運送保険の利用など、常に新しい経営の在り方を実現していった。
また、人を信じ、有能な人材は思い切って登用する人事を行った。例えば、20歳にもならない若い店員を尾濃や武甲に派遣し、巨額の取引を任せることもあった。自由闊達といわれる伊藤忠の社風は、そのスタート時点から生まれていたといえる。
初代忠兵衛は合理的な経営スタイルを推進するとともに、一方においては家族主義経営を実践した。当時の店の使用人は丁稚奉公といわれるように、幼少の頃から商家に年季奉公をするのが普通であり、原則給与はなく、衣食住が保障され、年に2回の小遣いや衣服の支給があった。初代忠兵衛はこのような使用人の育成に力を入れ、近江商人の商売理念である「三方よし」や「商売は菩薩の業」という考え方を一人ひとりに徹底させていった。
初代忠兵衛が店員たちと一体の家族主義的な経営を行った一例が「一六」であった。これは1と6がつく日、月6回、全店員参加の「すき焼き会」を開き、主従が席を共にした無礼講のひと時を過ごすというものであった。一六だけでなく、現代の社員リクリエーションにも通ずる芝居見物、舟遊びなどの行事を行うことで、店員たちをねぎらうことを忘れなかった。
このような、新しいものを取り入れ、従業員を大切にする経営方針は、初代忠兵衛の自由尊重の現れであった。初代忠兵衛は「真の自由があるところに繁栄がある」と常に店員に説いていたという。
初代忠兵衛には、経営者としての革新性と厚い信仰心からくる慈悲の心がその生涯を貫いていたのである。

二代伊藤忠兵衛
初代から受け継いだ合理的経営の精神

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留学中の二代伊藤忠兵衛 (明治43年)

二代伊藤忠兵衛が襲名したのは、弱冠17歳のときであった。二代忠兵衛は初代忠兵衛から事業を受け継ぎ、それをさらに近代的な経営へと発展させ、総合商社としての伊藤忠商事の基礎を築いた。その根底には初代忠兵衛から受け継いだ商いの精神と、合理的な経営の実践があった。
二代忠兵衛の合理主義につながるエピソードのひとつに「自転車活用ことはじめ」がある。伊藤本店入店からしばらくたった頃、二代忠兵衛は仕事の能率を高めるため、当時数少なかった自転車の活用を上司に進言した。当時の自転車はハイカラな、最新鋭の交通機関であった。自転車利用はなかなか認められなかったが、二代忠兵衛はあきらめず、自転車による配達がいかに効率的であることかを主張し続けた。そしてついに自転車の有用性が上司に認められ、一日に回れる得意先の数が飛躍的に増えたという。
店法の改正を何度も行ったり、年棒制度を月給制度に変えたり、当時では珍しい大卒・高卒者を採用するなど、制度の改革に取り組み、店の経営の近代化を進めていったのも合理主義の精神によるものであった。なかでも周囲の大反対を押し切って採用した火災保険は、本店が全焼した際、大いに役立った。当時、保険をかけるということは、多額の借金をするということと同義語であったという。
初代忠兵衛は長崎を見聞したことがその後の商いに大きな刺激を与えたが、同様に二代忠兵衛は、若い頃に経験したイギリス留学からたくさんの生きた知識を得た。総合商社の原点ともいえる、外国商館を通さない直貿易への切り替えや機械や鉄鋼などの非繊維製品の取り扱いを始めたのも、イギリス留学での経験によるものであった。
二代忠兵衛は若きリーダーとして、ときには生き残りをかけた決断を下した。とくに1920年(大正9年)の大恐慌で伊藤忠経営が危機に陥った際は、「屈すべきときに屈しなければ、伸びるときに伸びられない」とういう経営哲学のもと、思い切った事業の縮小と経営改革を断行し、瀬戸際にあった伊藤忠を再建した。このとき組織された新しい経営陣は二代忠兵衛以下平均年齢35歳という若々しいものであり、その団結力は苦境を乗り越える大きなエネルギーとなった。その後関東大震災、金融恐慌、世界恐慌など日本経済に幾多の試練が訪れるが、二代忠兵衛は、その卓越した管理能力と決断力で激動の時代を乗り切り、伊藤忠商事の基礎を築いた。
やがて戦中期を経て二代忠兵衛は直接的な経営から遠ざかるが、経営のカリスマとして、実業界に重厚な存在を示し続けた。
二代忠兵衛の時代の先を読み、果敢に挑戦し、誠実な商いを目指す精神は、今日の伊藤忠にも確実に受け継がれているのである。

伊藤竹之助
二代忠兵衛のよきパートナー

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若い頃の竹之助(左)と二代忠兵衛(明治41年)

伊藤竹之助(旧姓:逸見竹之助)その生涯を通じて、二代伊藤忠兵衛のよき相談相手であり、また、二代忠兵衛との二人三脚で伊藤忠経営を担ってきた。
逸見竹之助は、二代忠兵衛が学んだ滋賀県商業学校の卒業生であり、伊藤本店に番頭候補として入店した。二代忠兵衛の1年先輩の竹之助は、後に初代忠兵衛の長女トキの娘フキ(二代忠兵衛の姪)と結婚し、伊藤姓を名乗った。
1914年(大正3年)に伊藤忠合名会社が発足した際には、二代忠兵衛が本店と西店、竹之助は糸店のそれぞれ主管を務めた。竹之助は繊維だけでなく工業分野にも積極的な関心を抱き、「これこそ将来、我々の事業とすべきもの」と二代忠兵衛に進言するなど、伊藤忠の業容拡大に貢献した。
伊藤竹之助はよきパートナーとして生涯二代忠兵衛を支えた。数々の出来事の中でも、特に第一次世界大戦後の大恐慌の際に二人はがっちりとスクラムを組み、困難に立ち向かった。1920年(大正9年)、相場の大暴落によって手もち商品の値段は下落し、先物取引の不履行や取引先の倒産などで伊藤忠経営は瀬戸際へ追い込まれた。二代忠兵衛と伊藤竹之助は、お互いの強みや得意技を活かして危機を乗り越えることにした。そのひとつは、商品の売り買いは竹之助、工場の整理と紡績事業の経営は二代忠兵衛と役割を明確にし、伊藤忠の再建に取り組んだのである。この年は伊藤忠の歴史において波乱の年であり、この困難を乗り越えるのに、二代忠兵衛にとって竹之助の存在は、なにものにも代えがたい心強いモラルサポートであった。
二代忠兵衛は、その回顧録の中で「竹之助が一族に大きな良き基礎を残してくれたことは感謝に堪えず、今に最も追憶する人の一人である」と書き残している。

小菅宇一郎 [1949年(昭和24年)~1960年(昭和35年)]
伊藤忠の戦後再発足を指揮した「相場の神様」

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小菅宇一郎

1949年(昭和24年)12月1日、戦後再発足した伊藤忠商事の初代社長に就任した小菅宇一郎は、「新生伊藤忠」経営の先頭に立って活躍した。小菅は、まだ戦後の混乱の空気が立ち込める中で社員を鼓舞し、「伊藤忠経営の理想は『乏しきは分かち合う』という家族的共同社会を狙うところにある」と伊藤家の家風ともいうべき「分かち合い」の大切さを説いた。
一方で小菅は、繊維取引での豊富な経験を活かし商社パーソンとしての実績を築いていた。そこには小菅の卓越した相場感覚が働いていた。現在の伊藤忠のビジネスで「相場を張る」ことは皆無だが、かつての商社ビジネス、特に繊維取引に相場はつきものだった。小菅は、若いときは「相場の神様」と呼ばれ、「相場を張れば百戦百勝で負けることがなかった」といわれるほどの繊維取引の強者であり、この時代の商社にとって比類なき実力経営者だった。「相場の神様」と呼ばれる所以を問われると「キリンも老いれば駄馬や」とはぐらかしながらも、「相場というものは正直なものだ。需給のバランスを正しく読んでいれば間違うことはない」と答えていた。
小菅は、その人生のすべてを「伊藤忠とともに歩んだ」といわれるほど、伊藤忠をこよなく愛した人だった。それだけに、社員に対しても時には厳しく接した。
「要は、正しく、強く、明るく、嘘を言わぬこと、無理せぬこと。私生活でも営業でもそう。平凡だがむつかしい。そして究極は、やはりなんといっても熱意と責任」と説いた。

越後正一 [1960年(昭和35年)~1974年(昭和49年)]
1927年(昭和2年)の繊維相場で伊藤忠を勝ち組にした

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越後正一

越後正一は小菅宇一郎の後を受けて、伊藤忠を「総合商社」へと発展させた経営者で、「伊藤忠中興の祖」と呼ぶ人もいる。売上高で非繊維部門が繊維部門の割合を上回ったのも越後の時代であった。
越後は前社長小菅と同様に、伊藤忠きっての「繊維相場の神様」と呼ばれていた。そのきっかけは、若い頃、繊維相場の大戦争に勝利したことによる。越後は、入社3年目には綿糸部の部長にピックアップされたというほど繊維取引の才能に恵まれた人材だった。1927年(昭和2年)、綿糸部長時代、最大の競争相手だった会社と繊維の相場を張り合って見事勝利を納め、相手の会社を綿糸布市場から退場させたというエピソードが残されている。
越後はその「相場観」を次のように書いている。
「相場に最も大切なことは、先行き見通しであることは間違いないが、それをいつ仕舞うか、つまり売ったものは買いに、買ったものは売りに、いつ転じるかという、その転機が成功不成功の分かれ道になる。計算上いくら利益が上がっていようとも、実際にそれを手に入れなくては絵に書いたモチに過ぎない」(日経新聞社『私の履歴書』より)
越後は、その在任中に伊藤忠の業績を大きく伸ばし「1兆円商社」に押し上げたことで知られるが、時には事業計画が思うように進まず、敗退の憂き目も味わうこともあった。そんな時に越後は、次の英語のフレーズを社員に示した。
The sun is always shinning behind the dark clouds.
「黒雲の後ろには、太陽は常に輝いている」