峠越えの道(伊藤忠商事の歴史)

始まりの時代
―創業から伊藤忠商事株式会社発足まで―

1858-1919

初代伊藤忠兵衛の業績

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初代伊藤忠兵衛

初代伊藤忠兵衛は、1842年(天保13年)7月2日、滋賀県犬上郡豊郷村八目に五代伊藤長兵 衛の次男として生まれた。伊藤忠商事創業者の誕生である。
伊藤家はいわゆる近江商人の家であり、「紅長(べんちょう)」の屋号で、地場の「高宮絣」「野洲晒」などの繊維品の小売業を営んでいた。

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少年時代の忠兵衛が行商の際に通った古道の入り口

初代忠兵衛が大阪経由、泉州、紀州まで「持ち下り」といわれた行商を始めたのが1858年 (安政5年)、忠兵衛15歳のときであった。この年を伊藤忠商事創業の年としている。
持ち下りは次第に販路を広げ、九州地区にまで進出し、その実績を足場に1872年(明治5年)には大阪の東区本町2丁目で呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を開店するまで大きく成長を遂げた。
初代忠兵衛は紅忠開店と同時に「店法」を定め、店主と従業員の相互信頼をもとに合理的な経営を行うための施策を打ち出した。例えば店内の会議制度の施行、利益三分主義の実践、洋式簿記の採用、現金取引の実行など、当時の商店としては一歩進んだ経営で事業を広げていった。

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当時の大福帳

1884年(明治17年)には紅忠を「伊藤本店」と改称。また「伊藤京店」を開店、翌1885年 (明治18年)には「伊藤外海組」を組織し、海外貿易に乗り出した。明治20年代に入ると、明治政府の諸施策が整い、経済界は大きく発展し、紡績を中心とする綿製品の輸出も活発となった。こうした激動の時代の中で、創業者伊藤忠兵衛はその商才を発揮し、「積極・機敏・合理」の経営方針のもと、今日の伊藤忠商事の礎を築いたのである。
初代忠兵衛は、商人として生まれながらの商いの感性を持った人物であった。近江商人の家に生まれた忠兵衛は熱心な浄土真宗の信者であり、「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」という「三方よし」を生涯実践した真の「商人」であった。
1903年(明治36年)7月8日、初代伊藤忠兵衛は永眠した(享年61歳)。

二代伊藤忠兵衛の才覚

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留学中の二代伊藤忠兵衛 (明治43年)

初代忠兵衛の没後、次男精一が家督を相続、二代伊藤忠兵衛を襲名した。1903年(明治36年)7月、精一17歳のときのことである。
二代忠兵衛が伊藤本店に入店したのは1904年(明治37年)であった。この年始まった日露戦争は日本の勝利で終結した。二代忠兵衛が伊藤忠経営を担った時代、伊藤本店の商売は日露戦争がもたらした戦勝景気で活況を呈していた。
二代忠兵衛は商品の荷造りや出荷、輸送などを担当する兵站部で伊藤忠での第一歩を歩み始めると、若き経営者としての資質を自ら磨きつつ、伊藤本店経営の改革に乗り出した。
例えば1908年(明治41年)には、分散していた伊藤家の事業を統合し、「伊藤忠兵衛本部」を組織、自ら代表を務めた。これは36年前に初代忠兵衛が大阪で紅忠を開店して以来の画期的な組織改革であった。本部は4店1工場それぞれの経営方針を決め、人事、資金の管理などを統括した。

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マニラ出張所

二代忠兵衛の積極果敢な経営の精神は、東京への支店開設にも見ることができる。1908年(明治41年)7月、関西の糸商としては最初の東京支店を日本橋人形町に開設した。海外にも早くから目を向け、伊藤本店の輸出部を伊藤輸出店として独立させ、上海、韓国、フィリピン、マニラなどへ次々と出張所を開設していった。二代忠兵衛には初代忠兵衛の商いへの志と進取の精神が流れ、まさに伊藤忠の若きリーダーとして自ら学びつつ行動していったのである。
二代忠兵衛の視野は広く欧米に向けられ、1909年(明治42)3月にはイギリスへ渡り、ヨークシャーにある商工専門学校ポリテクニックに入学した。欧州の繊維ビジネスを見聞するとともに在学中にも毛織物の為替輸入で利益を上げるなど、若き実業人として才覚を発揮した。
1912年(明治45年)、明治天皇が崩御、大正に改元された。1913年(大正2年)、綿糸部を設けるが、翌1914年(大正3年)7月には第一次世界大戦が始まり、生糸、綿糸の相場の暴落を体験することになる。大戦の成り行きへの不安から株式市場や生糸・綿糸の取引相場の大暴落、銀行の取付け騒ぎが起きるなど、日本経済は一時混乱した。
そうした厳しい経営環境の中にありながらも二代忠兵衛は、伊藤忠の組織をいかに強固なものにしていくかに全力をあげて取り組んだ。いろいろ悩んだ末の結論は、同族経営には限界があるということであり、会社の法人化を決断した。

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合名会社発足の広告

1914年(大正3年)12月29日、伊藤忠兵衛本部は、法人組織「伊藤忠合名会社」(資本金200万円)として再発足した。このとき二代忠兵衛は28歳の若さであったが、約1年半にわたる英国留学で身につけた国際的なビジネス感覚で世界の経済の動きを広い視野で見ながら、次々と的確な経営判断を下していった。
第一次大戦開戦直後は戦争不安による混乱が不況ムードを招いたが、その反動から日本経済は未曽有の大戦景気に包まれていったのである。1914年(大正3年)から1919年(大正8年)にかけての日本の工業生産額は5倍に膨張するほどの勢いであった。綿業界も活況を呈し、伊藤忠合名会社の糸店は総合的な綿糸布問屋として業績を大きく伸ばすことができた。
二代忠兵衛の先見性と積極果敢なディシジョンは、伊藤忠の次の展開を確実にとらえていた。1918年(大正7年)3月、二代忠兵衛はニューヨーク出張所の開設に踏み切った。ニューヨーク出張所では綿布の他にアメリカから日本に向けての鉄、機械の輸出、また上海支店を中心とした日中間の非繊維取引を開始するなど、伊藤忠はすでにこのときから「総合商社への道」を着実に歩み始めていったのである。ポーランドの独立(1916年)、ロシア革命(1917年)、ユーゴスラビアの独立(1918年)など世界情勢が騒然とする中にありながら、二代忠兵衛は、伊藤忠商事株式会社の創立に踏み切った。
1918年(大正7年)12月1日、資本金1,000万円の伊藤忠商事株式会社は合名会社の営業を継承し、“商いの海”へと力強く漕ぎ出したのである。

総合商社の夜明け
―旧伊藤忠商事時代―

1920-1937

弾力経営で危機を乗り切る

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ニューヨーク出張所があったウールウォースビル(大正7年)

1920年(大正9年)3月15日の株式大暴落をきっかけに、日本経済は大パニックに突入する 。大戦景気で好調だった日本の貿易が輸入超過に陥り、この年、東京株式取引場の株価は最高値の5分の1にまで暴落、また生糸は4分の1、綿糸は3分の1とそれぞれ大きく値を崩すことになった。
綿糸布を中心とする伊藤忠商事の事業は、経済パニックの中で、まさに「疾風迅雷的」(『第二期営業報告書』の記述)ともいえる直撃を受けた。明治末期から大正初期にかけての積極的な営業展開が裏目に出て、得意先の機屋や商社からの回収がままならず、また相場暴落の損失とあわせて伊藤忠は膨大な債務を負うことになった。二代忠兵衛は後に「大正9年以降の苦しみは言語に絶するものがあった」と当時の心境を吐露している。
しかしこの時期、二代忠兵衛は経営者としての責任感とそのたくましい商魂によって「屈すべきときに屈しなければ、伸びうるときに伸びられない。人と会社が弾力性を失えば、その人その会社に発展はない」と判断、営業体制とその人員の大幅縮小を断行し、経営の立て直しを図った。このときの二代忠兵衛の会社再建への基本方針は、(1)機械取引などで拡大した伊藤忠の営業を本来の綿糸布に戻す、(2)海外店を整理し、貿易業務から撤退する。(3)人員整理、経費削減を断行する、の3項目だった。
経営体制についても大胆な変革を行った。1920年(大正9年)9月には、大同貿易株式会社を設立し、神戸支店の機械部、横浜、マニラ、ロンドン、ニューヨーク各出張所の営業をそれぞれ伊藤忠本体から切り離し、新会社へ移管した。また人心一新のための役員改選を行い、社長・伊藤忠兵衛(35歳)、専務取締役・伊藤竹之助(38歳)以下、平均年齢35歳という若さに溢れる経営体制がつくり上げられた。
これに先駆け二代忠兵衛は、伊藤忠のアメリカ進出に力を入れてきた。ニューヨーク出張所を1918年(大正7年)に開設し、アメリカからの中古紡績機械の日本への輸入をはじめ、機械類の取り扱いを強化し、やがて鉄鋼、重化学商品、自動車、木材など取り扱い分野を広げていった。同年4月にはアメリカにおける自動車販売を強化するため大阪自動車を設立し、後にクライスラーとなるマックスウェルなどアメリカの自動車メーカーとの取引を開始した。

総合商社の骨組みを形成

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呉羽紡績第一工場(昭和5年)

1920年(大正9年)の経済パニックから1931年(昭和6年)の満州事変勃発までの約10年間というものは、伊藤忠にとってまさに“受難の時代”であった。しかしこの厳しい経営環境の中で、試行錯誤はあったにせよ、綿糸布業界における伊藤忠の事業体制は着々と確立され、特に綿糸布加工製品の輸出においては著しい成果をあげていった。
1929年(昭和4年)には呉羽紡績を設立し、二代忠兵衛が社長に就任した。二代忠兵衛は紡績の生産工程の短縮と生産能力の向上を目指し、豊田佐吉が開発した全自動織機をいち早く導入し、近代的な紡績工場の建設を目指した。こうして伊藤忠は日本を代表する繊維商社としての地位を固めていった。当時の伊藤忠パーソンは、日本綿布を世界に売り込む尖兵となって、アジア市場への輸出をはじめインド、中近東、アフリカ、さらにヨーロッパ市場にまで日本綿布の販路を広げた。
日本の繊維業界を形成してきたのは、近江商人から出発した関西商社が中心であった。中でも丸紅、東綿、日綿、江商、伊藤忠の5社は「五綿」と呼ばれ、日本の繊維貿易の中核を担う実力があった。その中にあって伊藤忠は著しい躍進をとげたのである。
1932年(昭和7年)3月、満州国が建国された。その前年には満州事変が勃発。満州事変を機に第一次上海事変へと飛び火し、日本は国際連盟を脱退するなど揺れ動く国際情勢の中で、日本経済も大きな影響を受けた。この年の5月15日、海軍の青年将校による反乱事件(5.15事件)を機に日本はファシズムへの道を進みはじめ、国家財政における軍事費増大をもたらすなど、軍拡景気の時代を迎えるのである。

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伊藤忠本社営業部社内風景(昭和7年)

軍拡景気は日本の綿糸布輸出にも影響を及ぼした。1933年(昭和8年)には日本は英国を抜いて綿布の取引において世界の王座を占めるようになった。そしてさらに1935年(昭和10年)には日本の綿業史上最高の輸出記録を達成し、人絹糸の生産高も1937年(昭和12年)には米国を抜いて世界一の地位を占めるまでになった。そういう中で伊藤忠は繊維総合商社として綿、人絹、スフ、毛など繊維全般にわたる原糸および製品の取り扱いを年々拡大し、内需と輸出を合わせた綿糸の取り扱いで業界最高のシェアを占めるまでに至った。
銅鉱石、塩、硝石、蛍石、硅石、スクラップなどの輸入取扱も急増し、伊藤忠は繊維以外の取り扱いを含めた総合商社としての骨組みを次第に形成していくのであった。

戦中から戦後へ
―三興・大建産業時代―

1938-1948

三興株式会社の発足

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三興青年団の祝賀更新(昭和17年)

1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の盧溝橋における日本と中国の軍隊の衝突を機に、日中戦争の火ぶたが切られた。満州事変、第一次上海事変と中国大陸における戦局の拡大にともなって、日本は戦時体制へと突入していった。戦争の拡大にともなって日本の繊維産業は、すべてにわたって国による統制下におかれることになった。

繊維統制は次の三段階にわたって実施された。

第一期

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)、綿花、羊毛、パルプなど原料輸入規制の開始。毛製品、綿製品にスフを混入することが強制された。

第二期

1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)、国家による統制の一元化。国家統制による計画貿易へ移行。

第三期

1941年(昭和16年)以降、自給自足経済の確立と軍需生産の増大を目的に企業の整備統合。1941年(昭和16年)7月、政府は貿易統制令を改訂し、海外貿易は完全に国家統制に移行した。

そしてこの年の6月、独ソ開戦、12月8日、日本は米国に対して宣戦を布告、太平洋戦争へと突入していったのである。

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衣料切符

1942年(昭和17年)4月には繊維製品配給消費統制規制令が公布され、衣料切符制度が施行された。戦争中の繊維産業で大きく伸びたのが、綿花の代用繊維スフであった。「愛国繊維」という名前をつけ民需衣料として盛んに使われるようになった。伊藤忠商事もスフの取り 扱いでは、綿、人絹と同様に業界の最右翼を占めるようになった。
1940年(昭和15年)伊藤忠は社標をCI(ひし形にCIのマーク)に、会社の略称を「伊藤忠」とすることを決めた。そして1941年(昭和16年)4月、伊藤忠商事は、丸紅商店、岸本商店の2社を併合して3社による三興株式会社として発足した。こうして太平洋戦争の戦時体制の中で伊藤忠の名は、しばし消えることになる。

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社標の広告(昭和15年12月 毎日新聞)

三興株式会社としての企業統合は、戦時体制の中で日本の政治経済、社会、すべての機能が「高度国防国家」に向けて集約されている中での必然であった。三興は、伊藤忠商事を存続会社とし、丸紅商店と岸本商店を吸収合併するという形式で、資本金3,600万円、従業員数3,900名からなる日本を代表する商社として発足したのであった。太平洋戦争下の三興の業績については、ほとんど記録が失われているが、発足当初の年間取扱高は約10億円、うち国内45%、現地取引43%、輸出入12%の割合であった。
1942年(昭和17年)には、ミッドウェー海戦での敗北(6月)、ガダルカナル島における敗北(8月)などから、日本の敗色は次第に濃くなっていった。三興は国策に沿って南方建設の一貫として鉱山開発に関わったが、5月9日には、三興社員を含む伊藤忠関係の社員13名が乗船した太陽丸が五島列島沖でアメリカの潜水艦による魚雷攻撃で撃沈され殉職するという悲しい出来事もあった。

三興から大建産業へ

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戦災直前の大建産業本社(左)と紡績部(右)

1944年(昭和19年)になると戦局はますます日本に不利な状況となる。これにともなって国の重点産業は、船舶、航空機2つに絞られていった。このような情勢下、三興は1944年(昭和19年)9月、姉妹会社であった呉羽紡績、大同貿易を併合し、大建産業株式会社として新発足することになった。大建産業は当時としては極めて異例な、商社と紡績会社の統合で生まれた会社であった。従ってその事業内容も幅が広く、商社機能に加えて繊維製品、化学品、鉄鋼、製材、鉱山、農林、水産、畜産などのメーカー機能も併せ持ち、さらに事業会社に対する投融資を行う総合経営体であった。
三興から大建産業へと、伊藤忠商事は時代の大きなうねりの中で業態を次々と変え、戦力増強の国策に沿った「時局産業」として、事業活動を持続したのであった。大建産業の生産部門は、いわば軍需品生産工場であり、例えば呉羽紡績の工場では木製飛行機を製造した。呉羽航空機(木製戦闘機)は1945年(昭和20年)8月に完成。その第1号機、第2号機は、いずれも時速605キロので、富山-立川間の試験飛行に成功した。
太平洋戦争末期、日本の多くの都市は空襲によって焦土と化したが、伊藤忠の本拠であった大阪も1945年(昭和20年)3月14日の大空襲で焼野原となった。このとき伊藤忠の大阪本社(本町)、船場支社(安土町)は焼失した。空襲による伊藤忠の被害は、事務所、工場、倉庫、社宅など合計20ヵ所におよび、被害は商品20億円、建物295万円、什器備品182万円、機械類228万円と記録されている。
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言を受託し、太平洋戦争は日本の無条件降伏、敗戦によって幕を閉じた。
戦後の混乱の中で、伊藤忠商事の外地勤務者とその家族たちは1945年(昭和20年)9月から1947年(昭和22年)9月までの約2年間にわたり祖国日本へ引揚げ、その数は1,077名にのぼった。
終戦とともに日本を占領した連合国軍は、日本の軍事力の破壊と民主的な政治経済制度の樹立という方針のもとに、財閥解体、制限会社、持ち株会社の指定、過度経済力集中排除法の制定などの施策を次々に実施していった。

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再発足広告(昭和24年12月1日 朝日新聞)

このような動きの中で大建産業は1946年(昭和21年)6月8日、子会社46社とともに制限会社の指定を受け、持ち株会社整理委員会の厳重な監督下におかれることとなった。翌1947年(昭和22年)12月18日、過度経済力集中排除法にともなって、大建産業は製造部門と商事部門の分離を中心とする、企業再建整備計画が決定し、呉羽紡績、伊藤忠商事、丸紅、尼崎製釘所の4つの会社に分かれて新発足することになった。
太平洋戦争のさなか、時代の荒波に翻弄された伊藤忠だったが、戦後の混迷と激動の時代を乗り切り、見事新会社として蘇生したのである。

躍進の時代 1
―戦後の再発足から高度成長時代へ―

1949-1965

総合商社への道

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再発足披露パーティー(昭和24年12月8日)

1949年(昭和24年)12月1日は伊藤忠商事の歴史において記念すべき日となった。長かった太平洋戦争下の戦時経済体制の束縛から解放され、日本経済全体が復興を目指して力強く立ち上がったとき、伊藤忠もまた企業再建整備法に基づく新生伊藤忠商事として新たに発足したのである。
戦後再発足した伊藤忠をリードしたのは、社長の小菅宇一郎であった。新生伊藤忠は大阪市東区本町2丁目36に本店をおき、繊維、機工、物資の3分野にわたる国内営業と輸出入業務を開始した。小菅は1,282名の社員に向けて「激流に竿さして無事河口に達した我々は今や新装を凝らして大海の怒涛に漕ぎだしたのである」と社員の奮起を促した。
終戦時から続いたインフレは、ドッジライン(日本経済の安定の基本方式)により収束し、1949年(昭和24年)ころから日本は自由経済体制への歩みを早めていった。1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮動乱は、わが国経済に一層の刺激を与え、伊藤忠商事は輸出入取引の実績を大きく伸ばしていった。繊維部門の比重が高かった伊藤忠の売上構成は、この頃から非繊維部門の拡大が著しく、その取扱高は全売上高の13%を占めるに至った(1951年3月期)。
繊維商社から出発した伊藤忠商事は、航空機、自動車、石油、機械など非繊維分野の取り扱いを積極的に伸ばし、総合化への歩みを加速していった。1950年(昭和25年)3月にはイギリスの自動車メーカー、ルーツ社と販売総代理店契約を結び、1952年(昭和27年)7月には民間航空の再開に対応するべく航空機課を新設し、海外航空機メーカーの輸入代理権の獲得に動いた。また石油については米国大手石油会社スタンダード石油の代理店、日米石油に経営参画するなど次々とダイナミックな施策を講じていった。
国際化への対応も素早いものがあった。1951年(昭和26年)1月には、ニューヨーク事務所、翌1952年(昭和27年)1月には現地法人伊藤忠アメリカ会社を設立するなど、対米貿易の拡大に備えた。引き続いてロンドン、メキシコ(1953年/昭和28年)ハンブルグ(1954年/昭和29年)香港、バンコク(1955年/昭和30年)と、世界の各地に伊藤忠の社標が高々と掲げられ、「総合商社伊藤忠商事」の名前は世界に知られていった。
昭和30年代に入ると伊藤忠の総合商社化は急速に進展し、為替の貿易、為替の自由化という基調の中で、伊藤忠は文字通り総合商社としての業容の構築を着々と進めていったのである。1955年(昭和30年)4月1日、伊藤忠は大洋物産の営業権を譲り受け併合した。このことは伊藤忠の東南アジア貿易推進に大きく役立った。

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伊藤忠電子計算サービス本社の電子計算機室

1955年(昭和30年)下期からは神武景気が始まった。伊藤忠商事は、総合商社化をますます推進し、原子力、化学工業、オートメーション、情報産業などの分野の将来性に着目、積極的な事業出資、経営支援などの形で、関係会社を次々と増やしていった。エネルギー分野への進出の一貫として原子力開発の将来性に着目、1956年(昭和31年)1月には、原子力室を設けて、海外の有力な原子力関連企業と代理店契約を結んだ。また1958年(昭和33年)11月には、東京電子計算サービス株式会社を設立し、電子計算機の輸入販売と、日本ではまだ数少なかった計算センターの運営事業をスタートさせた。
1955年(昭和30年)下期から始まった神武景気は鍋底不況へと一転、景気は沈滞していった。昭和30年代初頭の神武景気の過熱がやがて国際収支の悪化をもたらし、主要産業に陰りが生じ、企業の倒産、無配転落などが多発した。しかし伊藤忠商事はこの時期においても、繊維取り扱いでは業界第一位の地位を確保しつつ、非繊維部門の強化に注力し、1958年(昭和33年)下期には繊維:非繊維の取り扱い比率はほぼ6対4になるまで、総合商社としての体制を整えていったのである。
1958年(昭和33年)秋頃から日本経済は急速に立ち直りはじめた。1959年(昭和34年)度の日本経済の実質成長率は神武景気時の13%を超えて15%に達するという驚異的な拡大を実現、岩戸景気が到来したのである。戦後再発足からほぼ10年を経て、伊藤忠商事の1959年(昭和34年)度下期決算は、再発足以来の最高額を記録するに至った。まさに日本列島は「黄金の60年代」へと突入していったのである。第一次池田内閣は「国民所得倍増計画」を掲げ、日本経済は高度成長期へ向かって走り始めた。

高度成長時代へ

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第6階国際見本市の伊藤忠展示場(昭和40年)

国際貿易の自由化のうねりとともに、わが国の貿易為替自由化は、1960年(昭和35年)から大きく進展することになる。1960年(昭和35年)4月、わが国の輸入自由化率は40%であったが、翌1961年(昭和36年)には綿花、羊毛などの輸入自由化により65%まで高まった。
このような日本経済の高度成長の波に乗って、1960年(昭和35年)に社長に就任した越後正一は非繊維部門の拡充による総合商社化への布石を次々と打っていった。これらを推進していく事業会社も相次いで設立された。1961年(昭和36年)には伊藤忠燃料、伊藤忠モータース、東京肥料販売サービス、伊藤忠AMFボウリング、東京木材販売サービス、伊藤忠運輸倉庫などの各社が次々と設立された。またエネルギー機械物資関連のプロジェクトも相次いで具体化していった。1961年(昭和36年)には伊藤忠燃料が石油取扱量を大幅に拡大し石油製品の販売も開始した。世界最大のボウリングメーカー、AMF社と提携しAMFボウリングは、わが国におけるレジャー産業のはしりとなった。
総合商社化を進める一環として、鉄鋼関連業務の強化も図るべく1961年(昭和36年)10月、有力な鉄鋼問屋森岡興業を吸収合併した。一方、祖業である日本伝統の繊維部門についても、1964年(昭和39年)4月1日、厚地織物、ニットなどの取り扱いで実績を持つ専門商社・青木商事を吸収合併した。このように繊維、非繊維の事業会社の強化とプロジェクトの推進によって、均衡の取れた総合化への布石が着々と打たれたのである。
1964年(昭和39年)10月10日から24日まで、史上最大規模といわれた第18回オリンピックが東京で開催された。この年は日本最大のロケットラムダIII型1号の打ち上げ(7月)、東海道新幹線の開通(10月)など日本列島に活気がみなぎる中で、日本経済の高度成長に支えられて伊藤忠商事は好業績を残すことができた。
1963年(昭和38年)および1964年(昭和39年)の2年間に売上高、経常利益ともに50%を越える増加を実現し、1963年(昭和38年)下期においては、半期売上高5,000億円を突破し、伊藤忠商事は「一兆円商社」として名乗りを挙げたのである。

躍進の時代 2
―オイルショックを乗り越えて―

1966-1983

創業100年を迎える

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モスクワテキスタイル’68年展(昭和43年)

日本は1960年(昭和35年)以降、貿易、為替の自由化を推進してきた。後に「40年不況」といわれるように経済の停滞もあったが、1966年(昭和41年)、自由化の加速の中で、伊藤忠商事は「堅実・積極経営」を強力に推進していくことによって収益性を確保し、12%の配当を維持することができた。わが国の貿易も著しい拡大をとげ、1967年(昭和42年)度には通関ベースで100億ドルを突破するなど、日本の貿易収支が記録的な黒字を達成する中で、昭和40年代前半の伊藤忠の事業展開は活気にあふれていた。
1966年(昭和41年)には、東洋一の超大型高速電子計算センターを大阪合同東京ビルに開設し、情報産業へ本格的に進出していく布石を打った。またアラビア石油と日本輸出入石油が保有する東亜石油の株式を譲りうけ、同社の経営に参加し、石油事業の拡大を図った。
昭和40年代における伊藤忠の海外貿易活動は、きわめて活発なものがあった。1966年(昭和41年)には、アデレード、ルサカ、アンカラに、1967年(昭和42年)にはプラハ、ラパス、ウェリントン、マンチェスター、1968年(昭和43年)には、ベルリン、アテネ、さらに1969年(昭和44年)にはデトロイトに、それぞれ現地事務所を開設し、海外貿易活動の足場づくりを行った。

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第7次日本産業巡航見本市船「さくら丸」伊藤忠ショールーム(昭和42年)

貿易立国日本を代表する総合商社としての自負から、伊藤忠は海外での積極的なPR活動を展開した。1966年(昭和41年)10月には、ソ連のモスクワおよびリガの両市で繊維製品総合展示会を開催、また、日本産業巡航見本市船「さくら丸」にも伊藤忠ショールームを設け世界各国の港に停泊し、日本製品のPRを行った。こうした活動を通じて、伊藤忠は、貿易振興のための民間経済外交の一役を担っていった。
1967年(昭和42年)には東京支社を東京本社と改称し、大阪本社、東京本社の2本社制に踏み切り経営体制の強化を図った。
1969年(昭和44年)、伊藤忠は創業100年の節目の年を迎えた。4月25日には、かねてから大阪御堂筋に建設を進めてきた大阪本社新社屋「伊藤忠ビル」が完工し、この日、完工式に続いて創業100年記念式典が行われた。新社屋完工披露パーティーは政財界、学会などから5,000名を超える来賓を迎え、華やかに開催された。

オイルショック襲う

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アルジェリアに建設された石油化学コンビナート

1970年(昭和45年)、大阪千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに、日本万国博覧会(EXPO’70)が開催された。この年、伊藤忠は戦後再発足20年目を迎えた。越後は1973年(昭和48年)には売上高100億ドル(3兆6,000億円)を目標とする、第6次長期経営計画をス タートさせた。非繊維部門の拡大という大きな目標に向かって伊藤忠は、宇宙開発、海洋開発、海外資源開発などに積極的に取り組む方針を明らかにした。また海外の一流メーカーからの技術導入や海外のビッグエンタープライズとの提携など、グローバルなビジネス展開に力を入れた。資源開発事業については、ブラジルにおける鉄鉱石の長期開発事業や、スマトラ沖 における海底油田開発、あるいは日本とブラジルによる共同林業開発などのビッグプロジェクトが次々と動き始めた。
1971年(昭和46年)7月には、アメリカのゼネラル・モータース(GM)といすず自動車との提携が伊藤忠の仲介によって実現し、伊藤忠の自動車産業への取り組みの強化につながった。また、プロクター・アンド・ギャンブルと日本サンホーム、オスカー・マイヤー社とプリマハムなど世界の一流企業と日本企業との提携の橋渡し役を務め、名実ともに国際化時代の総合商社としての存在を世に示した。
日中貿易においても伊藤忠は貿易会での先鞭を切っていた。1971年(昭和46年)12月14日、伊藤忠は日中貿易4条件を順守することを正式に発表し、中国との貿易促進に積極的に取り組みはじめた。伊藤忠は中国から友好商社に指定されるに至った。
1971年(昭和46年)8月15日、ニクソン大統領米大統領はドルの金兌換停止を発表した。これを機に世界経済はドルショック(ニクソンショック)に襲われ、日本の産業界は深刻な影響を受けることになった。為替損失によるダメージを受ける企業が多いなかで、伊藤忠は1972年(昭和47年)9月期において、約100億円の為替損失を出しながらも、経営体質の強さを発揮し たのである。
しかし、翌1973年(昭和48年)10月、第4次中東戦争の勃発によって、石油、電力の供給削減という非常措置がとられた。いわゆるオイルショックによって、伊藤忠経営を取り巻く環境はきわめて厳しい局面に直面した。
1974年(昭和49年)、衆議院物価問題特別委員会においては、総合商社6社の代表を呼び、商社による買い占めを追求する場面があった。こうしたことから社会的に商社批判の声が高まったことは事実である。この年の6月、伊藤忠は全社に行動基準を示達し、社員の注意を喚起した。いずれにせよオイルショックを機に日本経済は、高度成長から安定成長へ大きく舵を切り、それに ともなって産業構造は資源多消費型から、省資源型へと大きく転換していったのである。創業100年を機に、新たな発展を目指した伊藤忠は、オイルショックを契機に、経済社会のダイナミックな変化に対応する経営が求められる局面を迎えていた。
こうした中で、二代伊藤忠兵衛翁(相談役)は1974年(昭和49年)5月29日、逝去した。

10兆円商社へ

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東京・青山に完成した東京本社ビル

1974年(昭和49年)5月31日、社長越後正一が会長に、副社長戸崎誠喜が社長に、それぞれ就任した。
オイルショックは、それまでの高度経済成長の路線を歩んできた日本経済に逆噴射をかけたかたちで、産業界は一挙に不況感に覆われ、GNPは戦後初のマイナス成長を記録した。
こうした中で新社長戸崎は、日本経済がマイナス成長時代へ移行したことを認識しつつ、伊藤忠の歴史に脈々と流れ継承されてきた不撓不屈の精神で難局を乗り切ることを全社員に呼びかけていた。
マイナス成長時代を迎えたとはいえ、総合商社としての伊藤忠の海外事業との提携や大型案件の推進は依然として前向きで活発なものがあった。1977年(昭和52年)、ナイジェリア向け石油精製プラント(1,800億円)、アルジェリア向けガス処理プラント(1,420億円)、1978年(昭和53年)、アルジェリア向け大型LPGプラント(1,450億円)、1979年(昭和54年)、サウジアラビア向け世界最大の海水淡水化プラント(1,000億円)などの1,000億円プロジェクトが次々と実現していった。
一方で昭和50年代の伊藤忠は、2つの大きな問題解決を迫られていた。ひとつは総合商社安宅産業株式会社の吸収合併であった。安宅産業の海外事業の失敗に起因する不良債権に端を発した経営不振問題を解決すべく、伊藤忠は銀行筋の要請を受け入れ、安宅産業と業務提携を決断し、1977年(昭和52年)10月1日、伊藤忠は安宅産業と合併するに至った。安宅産業の信用不安の拡大は、国内的には経済の混乱をもたらし、また国際的には日本の商社の信用失墜を招きかねないことであった。安宅産業の合併はまさに社長戸崎の英断であった。
また、東亜石油問題の処理も、この時期の伊藤忠商事にとっては極めて重要な案件であった。石油ショックのあおりを受けて、東亜石油の経営は著しく不振に落ちいっていたが、伊藤忠商事は知多および川崎の精油所を処分することによって解決への道筋をつけた。
1980年(昭和55年)11月25日、伊藤忠商事東京本社ビルが完成した。1978年(昭和53)年3月に着工以来、最新の設計と工法によって青山にそびえ建つ、新しい時代を予感させる伊藤忠東京本社ビルの完成は、伊藤忠の将来の発展の足がかりを築いたという意味できわめて大きな意義があった。

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アルジェリア向け天然ガスパイプライン

この年、伊藤忠は1980年(昭和55年)からスタートする3ヵ年計画「Vision’83」の実施に踏み切り、名実ともに第3位商社の地位確保を目標に掲げた。1980年(昭和55年)、伊藤忠の売上高は初の10兆円を突破し、さらに翌1981年(昭和56年)度には12.3兆円という過去最大の業績を記録することができた。
伊藤忠の新しい潮流は、情報化時代へ対応した事業展開に見ることができる。伊藤忠は総合商社としては他社に先駆けてコンピュータの輸入販売、情報関連サービス事業などに取り組み、着々成果をあげていったのである。
産業界では経営革新のためのOA(オフィストートメーション)、生産合理化のためのFA(ファクトリーオートメーション)を積極的に導入する傾向にあったが、伊藤忠はそれぞれの分野における先端技術の導入や最新鋭情報機器、小型コンピュータ等の販売に積極的に取り組んでいった。
海外プロジェクトへの取り組みも活発に展開され、1981年(昭和56年)から1983年(昭和58年)にかけて、中近東地域向けのエネルギー関連プラント輸出、東南アジア諸国における各種建設プロジェクトなどの受注が相次いだ。これらのプロジェクトにおいて伊藤忠商事は相手国政府機関や現地企業と力を合わせ、総合商社の機能を十分に発揮し、それぞれのプロジェクト推進に全力を傾け、国際企業伊藤忠の名を世界にとどろかせていったのであった。

未来への飛翔
―21世紀の伊藤忠商事へ―

1983-2016

情報産業分野へ積極的に参入

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JCSAT-1

1983年(昭和58年)6月30日、社長戸崎誠喜が会長に、副社長米倉功が社長にそれぞれ就任し、伊藤忠商事の新しい経営体制が動き始めた。1985年(昭和60年)1月18日、懸案の東亜石油問題が完全に解決したことから、伊藤忠の均衡経営計画は予定通り1985年(昭和60年)3月に達成された。
米倉は、伊藤忠の衛星事業参入の決断をはじめ、世の中の情報化、サービス経済化等の動向を踏まえて、情報サービス産業、国際的な情報通信事業への進出について前向きに取り組んだ。その一環として1985年(昭和60年)4月、伊藤忠は米国ヒューズ社、三井物産株式会社との共同出資によって日本通信衛星株式会社(JCSAT)を設立した。この会社は通信衛星事業 を推進するための会社であった。引き続き1986年(昭和61年)11月には国際通信サービス事業を目指す国際デジタル通信企画株式会社(IDC)を設立した。IDCは翌年、事業会社に移行し、国際デジタル通信株式会社として活動を始めた。
1989年(平成元年)は伊藤忠にとっては「衛星元年」でもあった。3月6日、南米大陸仏領ギニアの基地からアリアンロケットに搭載されたJCSAT-1が打ち上げられた。この衛星の打ち上げは、伊藤忠が情報通信産業へ本格的に参入していくための大きなステップであり、その後の伊藤忠商事によるマルチメディア事業への参入のきっかけともなった出来事であった。
1990年(平成2年)、社長米倉が会長に、専務室伏稔が社長にそれぞれ就任した。伊藤忠は1991年(平成3年)の事業計画において、情報産業、金融関連事業、空間インフラ、資源開発、リーテイルの5分野を重点戦略分野と位置付けた。1991年(平成3年)は、湾岸戦争の勃発、ソビエト連邦の崩壊などから、世界は新しい政治・経済の秩序を模索する時代に入っていった年であった。
JCSATの打上げを機に、伊藤忠の情報産業への取り組みはますます具体化していった。そのひとつは、1991年(平成3年)10月に実現した伊藤忠、東芝による米国タイム・ワーナー社との提携であった。これはタイム・ワーナーの映画の配給やケーブルテレビネットワーク事業への番組提供をはじめとする、映像情報産業の領域に参入していくための先行投資であった。

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新英文社名、新企業理念発表会

日中貿易については、1972年(昭和47年)3月に中国政府から友好商社に指定されて以来、伊藤忠は対中国貿易の拡大や日中共同のプロジェクトの推進に力を入れてきた。1992年(平成4年)7月には、日本の商社として初の全額出資による現地法人上海伊藤忠商事有限公司を 設立した。日中共同プロジェクトとして大連工業団地開発事業、武漢向け珪素銅板工場拡張プロジェクト、広州向けポリエチレン等プラント建設など、次々と長期的視野に立った大型プロジェクトに参加し、日中友好商社としての存在感を示していった。
そうした中で伊藤忠は、国際総合時代にふさわしい新たな経営理念を制定した。新英文社名を「ITOCHU Corporation」とし、企業理念として「ITOCHU Committed to the global good-豊かさを担う責任」が制定された。

ディビジョンカンパニー制へ移行

1993年(平成5年)は、ECがマーストリヒト条約の批准を完了したのに続き、ガット・ウルグアイラウンドが最終合意に達し、NAFUTA(北米自由貿易協定)が発効するなど、多国間自由貿易体制が強化され、世界的に自由貿易が推進される時代を迎えた。こうした国際経済の激動の中で、日本 経済は株式や不動産価格の急落に伴う不良債権の発生やバブル経済下における過剰な設備投資から需要は停滞し、長期の景気低迷による不況の季節を迎えていた。
伊藤忠は1993年(平成5年)度において特別損失758億円を計上するという厳しい状況にあったが、翌1994年(平成6年)4月には、新たな中期3ヵ年計画「GLOBAL-‘96」をスタートさせた。収益力の抜本的改革、収益に見合った総経費体制の実現、水漏れ防止の強化という3つの基本方針のもとに、伊藤忠経営のリエンジニアリングが進められた。
この時期の伊藤忠の重点戦略のひとつは、情報・マルチメディア領域における積極的な事業展開であった。1995年(平成7年)8月のJCSAT-3の打ち上げが成功したことを踏まえ、伊藤忠は1996年(平成8年)にはパーフェクTV!の本放送開始、タイタス・コミュニケーションズの電話サービスの参入、伊藤忠インターネット株式会社の設立など、情報・マルチメディア分野での事業の強化を図った。
世界的に自由貿易が進展する中で、国内経済は内需と輸入の拡大による景気回復が期待されたものの、依然として景気は低迷していた。こうした経営環境の下にあって、伊藤忠の国内外の取引はますます多様化していく中で、極めて速いスピードで変化する経営環境に対応して、タイムリーな意思決定を行うための権限と責任を可能な限り現場に委ねる自己完結経営体制 を確立させることが急がれた。
1995年(平成7年)7月、社内にディビジョンカンパニー検討委員会が設けられ、1997年(平成9年)からディビジョンカンパニー制が導入された。ディビジョンカンパニー制は、各カンパニーの自主経営による最適な経営体制を実施することにあった。この結果、伊藤忠の事業部門は、繊維/機械/宇宙・情報・マルチメディア/金属/エネルギー・化学品/生活産業/建設・不動産/金融・保険・物流の8ディビジョンカンパニーに分割された。
さらに同年11月、今後2年間にわたって約2,000億円の特別損失を処理するという「経営改善策」が発表された。12月には「伊藤忠商事企業行動基準」が制定され、社員の意識改革を促したのであった。

不良債権・資産約4,000億円の処理

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経営姿勢を語る社長丹羽(手前は会長室伏)

1998年(平成10年)4月1日、社長室伏は会長に就任し、副社長丹羽宇一郎が社長に就任した。
丹羽は就任するや、次々と経営改革のための重要な決断を下していった。役員および顧問の定年制、取締役数の大幅削減、執行役員制の導入をはじめ、業績に応じた報酬を実現する新人事制度や人材育成のための教育・研修の施策などが実施された。
「20世紀に起こったことは20世紀中に処理する」というのが丹羽の基本方針であった。それに沿った「21世紀に向けての経営改革」が1999年(平成11年)10月13日に発表された。
「伊藤忠をより強い会社にしよう」という伊藤忠経営改革への丹羽の固い信念から、1999年(平成11年)度決算において、約4,000億円の特別損失を計上するという極めて大胆な形で経営革新が断行されたのである。
この時期、伊藤忠が抱えてきた不良債権や不良資産は極限に達していた。「このままでは伊藤忠は破綻するのではないか」と一部で取りざたされることすらあった。丹羽は、積年の膿をこの際すべて切開し、すっきりした形で再出発しようという強い決意を固め、1999年(平成11年)度決算において約4,000億円の特別損失を社内外に発表したのである。

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伊藤忠丸紅鉄鋼設立

2000年(平成12年)10月19日、伊藤忠は丸紅と鉄鋼部門の経営統合を発表し、伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社(MISI)が設立された。丹羽はこれに先立って、伊藤忠改革の攻めの布石も次々と打っていた。例えば1998年(平成10年)2月に出資したファミリーマートとのビジネス の拡大、西武百貨店との提携、吉野家への資本参加など、リーテイル分野への積極的な投資を行った。また、かねてから重点分野としてきた情報産業分野へは、子会社である伊藤忠テクノサイエンス株式会社の東証1部上場を達成し、社内には「ネットの森」を創設し、インターネットによるeビジネスへの展開を加速した。
中国市場への積極進出も次々と成果をあげていた。2004年(平成16年)3月、アサヒビールとともに伊藤忠は中国の食品最大手である頂新国際集団(頂新)と清涼飲料の合弁生産販売会社を設立し、また中国の物流会社、頂通控有限公司に出資、さらにファミリーマート、頂新と組んで、中国でのコンビニエンス事業をスタートさせた。
これらの案件はすべて2008年(平成20年)開催の北京オリンピック、2010年(平成22年)開催の上海万博を視野に入れたものであり、その後の中国における伊藤忠の事業展開を推進していくための足掛かりとなるものであった。

次世代伊藤忠創造へ

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次世代の伊藤忠への熱い思いを語る社長小林

2004年(平成16年)3月5日、社長丹羽は退任し会長に就任、専務小林栄三が社長に昇格した。
小林は就任にあたって、「Challenge(挑戦)、Create(創造)、Commit(責任)」という3つの心構えを社員に示し、伊藤忠経営が「攻め」のステージに入ったことを示した。
2004年(平成16年)11月28日、小林が社長に就任して最初の社員総会で伊藤忠の当年度上半期の実績が示された。連結利益441億円、売上総利益3,038億円は、いずれも過去最高の数字であり、7つのディビジョンカンパニーがすべて前年同期比増益という好業績を達成した。
伊藤忠はかねてからの経営改善策を生かし、2005年(平成17年)度からの中期経営計画「Frontier-2006」をスタートさせた。この中期経営計画のテーマは「攻めへのシフト」と「守りの堅持」であった。このためコーポレートガバナンスの徹底を期するとともに、一方において「収益規模の拡大」、「新規ビジネスの創造」による攻めのステージに入らなければならないことを社員に認識させた。
攻めの経営では、信販大手のオリエントコーポレーション(オリコ)への資本参加、伊藤忠グループの情報産業関連子会社、伊藤忠テクノサイエンス(CTC)とCRCソリューションズ(CRC)の経営統合、総合食品卸の日本アクセスの子会社化と西野商事との統合などが次々と実現していった。
2006年(平成18年)4月「ITOCHU DNA(Designing New Age)プロジェクト」がスタートした。これは経営の可視化、効率化により、現場力をいっそう強化して、組織の全体最適化を図ることを目指すものであった。そしてまた将来の伊藤忠の姿を見据えて、グループ連結経営の強化を図る壮大なプロジェクトのスタートであった。DNAの3文字には、「変化を先取りして、新たな未来を切り開く、強い遺伝子をつくっていこう」という、すべての伊藤忠パーソンへのメッセージが込められていた。
伊藤忠DNAプロジェクトは、次世代の伊藤忠創造への新たな創造であった。
伊藤忠は、2007年(平成19年)の中期経営計画「Frontier+2008」において「世界企業を目指し、挑む」をスローガンに掲げた。さらに2009年(平成21年)の中期経営計画「Frontier-2010」においては、「世界企業を目指し、未来を創る」を目標に掲げた。
伊藤忠パーソンは、それぞれの持ち場において“世界企業”へ挑戦するためのさまざまなプロジェクトに取り組んでいった。例えば2008年(平成20年)にスタートした「チーム伊藤忠 NAMISA」は伊藤忠ブラジル、日伯鉄鉱石、伊藤忠鉱物資源開発など鉄鉱石部隊に加えて、職能部隊である法務部、財務部、経理部、税務室など総勢30~50名で構成され、ブラジルの大規模鉱山CdP鉱山開発に伊藤忠の総力をあげて取り組んだ。CdPは鉱量、品位、生産規模などの点で、世界でも指折りの鉱山であった。チーム伊藤忠NAMISAは以来8年間にわたり、このプロジェクトの達成に全力をあげて取り組み、2015年(平成27年)、みごと達成するに至った。

総合商社No.1への挑戦

2010年(平成22年)4月、社長小林は会長に就任、副社長岡藤正広が社長に就任した。伊藤忠の“ブランドビジネスの仕掛け人”と呼ばれ、またアパレル業界で活躍してきた岡藤は、就任するや中期計画「Brand-new Deal 2012」を制定、「稼ぐ!(か) 削る!(け) 防ぐ!(ふ)」という言葉を掲げ、2013年(平成25年)には中期計画「Brand-new Deal 2014」において「非資源No.1商社を目指して」いくことを力強く宣言した。
伊藤忠は2011年(平成23年)の決算において、史上最高益となる連結純利益3,005億円を達成した。連結純利益において3,000億円を上回ったことは、総合商社では、三菱商事、三井物産に次ぐ業績であり9年ぶりに「総合商社第3位」の地位を奪還したことになる。
2013年(平成25年)には、伊藤忠は東南アジアトップクラスのITサービス企業CSC ESIおよびCSC Automatedの両社を買収し、東南アジアに進出する日系企業の事業拡大にITサービスの分野で支援していくことになった。伊藤忠はかねてから米国ドール社のドールブランドのバナナを輸入してきたが、米国ドール社のアジア青果物事業およびグローバル加工食品事業を買収し、伊藤忠の総合力とネットワークによってドール事業とのシナジー効果を高め、ドールブランドをアジア市場に輸出する事業にも積極的に取り組むことになった。
この他2013年(平成25年)においては、トルコSTAR Rafineri向け製油所建設を受注(約35億米ドル)。このプロジェクトは年間精製能力1,000万トンの製油所を新設するものであり、伊藤忠にとって欧州の一流コントラクターとの協業という新しい取り組みであった。またジンブルバー鉄鋼山の新規権益の取得にも成功した。
ウラジオストクにおけるLNGプロジェクトに関する調印も行われた。このプロジェクトはLNGの日本およびアジア周辺諸国への安定供給をもたらすとともに、ロシアのLNG輸出ソースの多様化にも寄与するものであった。
2015年(平成27年)1月、伊藤忠は、伊藤忠とCharoen Pokphand Group Company Limited(CPG)が折半出資するChia Tai Bright Investment Company Limited(CTB)を通じて、CITIC Limitedに出資することに合意した。3社は、広範な地域および事業分野での協業を目的とする戦略的業務提携の実施についても合意した。
このような世界企業としての伊藤忠の国際プロジェクトはダイナミックに展開されていった。
社員の「働き方」への改革も行われた。2013年(平成25年)10月1日からは、業務遂行の効率化と社員の健康管理の視点から「朝型勤務制度」を実施した。従来とかく夜型勤務が日常化している中で、平日9時から17時15分の勤務を基本とするシフトを組み、深夜勤務(22時から5時)は禁止とした。午前8時前に始業した社員には軽食が無償で支給されることになった。

ひとりの商人、無数の使命

2014年(平成26年)、伊藤忠はコーポレートメッセージ「ひとりの商人、無数の使命」を制定した。長年にわたりアパレルの川下分野で消費者と向き合うビジネスマンとしての体験を重ねてきた岡藤は、伊藤忠の国内外にわたる社員の活動の原点は「商人」にあることを折りにふれて強調した。岡藤は「商いの心が生みだし育むものであることを改めて全社で再確認しよう」と社員に呼びかけ、その徹底を期した。このコーポレートメッセージは、いわゆる総合商社御三家の一角を占める伊藤忠が、さらにその上を目指していくためには、すべての伊藤忠社員が共有できる価値観、すなわち「伊藤忠らしさ」を再認識し、それぞれの役割のもとでどんな場合も「商人魂」を忘れることなく、「無数の使命」を果たしていかなければならないという呼びかけであった。
伊藤忠のコーポレートメッセージ「ひとりの商人、無数の使命」は、広く社会へ向けて発信されていった。例えば2015年(平成27年)4月からは、映画監督是枝裕和氏を起用し、伊藤忠パーソンがさまざまな分野でひとりの商人として活躍する姿を映像で表現しオンエアされた。
2015年(平成27年)度決算における伊藤忠の当期純利益は、期初計画3,300億円に対し、実績値2,400億円を計上することができた。これは総合商社御三家の三菱商事(▲1,494億円)三井物産(▲834億円)をはるかに上回る水準の収益の達成であった。2015年(平成27年)度決算においては、株主帰属当期純利益は前期比602億円減益の2,404億円、営業活動によるキャッシュフローは前期比158億円増の4,194億円をそれぞれ計上した。
2016年(平成28年)5月10日、決算説明会において2015年(平成27年)度決算を発表した。岡藤は約220名のアナリストに向けて、伊藤忠がその158年の歴史の中で総合商社1位の座を獲得したことを力強く発表した。
このような好業績の背景には、非資源、資源を問わず資産の入れ替えを加速したこと、低収益事業から撤退したこと、また、暖簾や無形資産の構成価値を評価し、現時点における最大損失額を折り込んだ結果であった。こうして伊藤忠商事は総合商社首位の座を獲得し、「商社新時代をリードする全社員総活躍企業」へと向かって新たなスタートを切ったのである。