「ある商人」シリーズ

日経広告賞「大賞」受賞記念広告『初代に聞く。』

もし叶うなら聞いてみたい。今の時代だからこそ、あの人に。
商いの未来について。その、無限の可能性について。
伊藤忠商事の創業者、初代 伊藤忠兵衛。滋賀で生まれ、11歳で麻布の行商をはじめ、15歳のとき長崎へ。そこで出会ったものは、外国人に、軍艦、商館。活気溢れる自由貿易時代の始まりに驚き、目を見開いた。
彼が「商いの道の無限の可能性」を確信したこの年1858年を、後に伊藤忠商事は「創業の年」と定めている忠兵衛は持ち前の商人の才覚と先見性で、次々と古い商習慣を改革。時にはデキる若手に思い切って巨額の取引を任せ、毎月1と6のつく日には従業員たちとスキヤキを囲む会を開いた。自由闊達。従業員を大切にする。今に受け継がれる社風が生まれた。そしてもうひとつ、彼が生涯を通して大切にしたこと。「三方よし」の心得『売り手よし、買い手よし、世間よし』。この近江商人の商いの規範も、21世紀になっても変わらず伊藤忠の商人たちの胸に刻まれている。
「商いは菩薩の業。売り買いいずれをも益し、世の不足を埋めるものでなければならない」。
世界は刻々と様相が変わり、時代は動き、そして商いはつづく。2018年、伊藤忠商事は創業160年を迎える。

ひとりの商人、無数の使命 伊藤忠商事

第三回 青い商人

僕の部に、ひとりの新入社員がやってきた。1974年のことだ。彼は配属されるなりこう言うではないか。「伊藤忠商事ともあろう企業が"日本"のため、なんていう狭い視野でものを考えていいのですか?」
それは当時の副社長の発言に対するものだった。入社したての若造の、青く生意気な物言いである。「自分の部に来なくてよかったわー」と、よその部長は言った。
彼が配属された、わが輸入繊維部は、控えめに言っても「もう未来はない」と思われていた。「輸出」は華やかだけれど「輸入」は赤字続き。社内倒産さえ囁かれている。世の主流は既製服に移りはじめ、輸入毛織物が担うオーダーメイドのシェアは縮小する一方だった。こんな絶望的な部署に配属されてしまったとき、人はどうするだろう。そして商人ならどうするだろうか。彼は悶々としていたようだけれど、ある日僕に言った。「紳士服の展示会で生地を選ぶのは、服を着る男性本人ではなく、一緒に来る奥さんや娘さんだったんです」。
ならばその毛織物に、女性から人気のあるブランドの付加価値をつけて売ってはどうか? そう気づくと一番人気の「イヴ・サンローラン」に話を持ち込んでライセンス契約をとりつけた。この仕組みは当たった。生地は売れに売れたのだ。それは、「ブランドビジネス」と呼ばれる新しいビジネスモデルが誕生した瞬間だった。伊藤忠商事は、間髪入れず次々とブランドを導入。斜陽の輸入繊維部は存続の危機を免れ、部の名は「ブランドマーケティング部」に変わり、飛躍的に拡大した。その事業領域は今や繊維の枠を越え、衣食住全般にわたっている。
僕はその後、別の会社に出向して伊藤忠商事を離れてしまったけれど、彼のことは気になっていた。伝え聞くところではますます勢いに乗っているものの、まわりは彼をどう扱ってよいものか戸惑っているようだ。思うに、彼が古い固定観念を壊し、新しい価値観を否応なしに突きつけてしまうからかもしれない。態度も相変わらず生意気らしいし。でも商人にとって大切なのは、そういう、突き抜けるチカラなのではないだろうか。ある時は思いっきり革新的に。ある時は歴史ある物の価値を守り抜く。その瞬間は理解されないかもしれないし敵をつくるかもしれない。それでもなお、とんでもない突き抜け方のできる者こそが次の時代を切り開く。そんな新しい商人が、ここ伊藤忠商事で育っていくのだと思う。伊藤忠商事は2010年、彼、岡藤君を社長に迎えた。
ところで岡藤君。最近あの頃のきみのような、生意気な眼をした若者に会ったかい?

ひとりの商人、無数の使命 伊藤忠商事

第二回 止まるな!

越後さんが59歳で伊藤忠商事の社長に就任して、世界中の支店を回る旅にでるとき、僕は通訳としてついて行った。昭和35年のことだ。越後さんは、海外の社員を集めて宴会をすると必ず歌う歌があった。「王将」と「人生劇場」。僕は外国人のスタッフのために歌詞を英語やスペイン語に訳して配った。そこに書かれていることこそ、越後正一そのものだと思う。「やると思えば どこまでやるさ それが男の 魂じゃないか」。そういうスピリットを持つ人だ。度を超した負けず嫌い。負けても負けてもやる。商売に勝とう。財閥系に勝とう。まだ繊維の専門商社だった伊藤忠は、やがて悲願の総合商社化を果たすことになる。困難を乗り越え、現在の基礎をつくった。そういう人だった。
滋賀の農家の三男として生まれた越後さんは、医者になることを夢見た。しかし家庭の事情で進学は叶いそうにない。そんなとき、一生を決定づける出会いがあった。二代 伊藤忠兵衛。高等科卒業予定者の採用試験会場に現れた忠兵衛氏の目に、試験で満点をとった越後さんの姿が映った。即座に伊藤忠への採用が決定し、忠兵衛氏の家に書生として迎えられた。「どうか一流の商人に育ててやってください」と父は頼んだ。「この幸運に恵まれていなければ今の私はあり得なかった。人の一生は、よき指導者にめぐり会えるかどうかで大きく左右されるものだ」。以来、半世紀以上、忠兵衛さんに尽くし、社業に尽くした。
負けず嫌いといえば、一緒に車で移動するとき、信号で止まるといつも運転手に「止まるな!」と怒鳴っていた。「隣の車より早く行け!」と。しかし奥さんにはめっぽう弱かった。毎日握ってくれる玄米のおにぎりを、よく噛んで食べていた。越後さんは89歳で亡くなった。でも本当は100歳まで生きるつもりだったよ、と言っている気がしてならない。

ひとりの商人、無数の使命 伊藤忠商事

第一回 商いの男

わたしの祖父、二代伊藤忠兵衛は、当時にはめずらしい180センチの長身だった。眼鏡にステッキ。粋な装い。太い声で、ゆっくり包み込むように話した。俳句や清元が趣味だったので、腹から声が出るのだろう、「声が弱いと負けるよ」とも言っていたように思う。若くして引き継いだ伊藤忠の事業を、時代の変化を見据えた経営で大きく伸ばした祖父だった。しかしわたしにとっては、花や木々のことをよく知る実に穏やかなおじいちゃんである。大学時代、バスケットボールの試合にいちどだけ応援にきてくれたとき、試合に出られなかったわたしに「おまはんのレモン配りの姿だけは、見たよ」と言ってくれたことが思い出される。
第一次世界大戦後の恐慌で苦境に立たされた経験からだろうか、よく口にしていたことは「商売人は、いかなることがあっても噓を言わぬこと」。数字なるものは非常に正直だから、いちど噓をつくと何倍にもなって暴れだす。そして「会社は人が基本。人を育て、育った人が会社を育てる」というのが信条だった。ゆえに「つねに、こころ豊かであるように」と語った。でなければ、商売人としての判断が屈折してくるのだ、と。
祖父はわたしが29歳の時に亡くなった。死の直前まで、自動車会社との提携問題を気にかけていた。巨人の長嶋と王の大ファンで、巨人戦の話ともなると、打者や投手の心理にいたるまで実に細かく楽しげに語ったものである。酒については、ほとんど飲めず、お猪口を逆さにした凹みに3杯ほどという塩梅だった。

ひとりの商人、無数の使命 伊藤忠商事